初級翻訳・坊つちやん 第21話

坊つちやん

すると、うらなり君が突然おれの隣から立ち上がって、そろそろと女の方へ歩き出したので、少し驚いた。
マドンナじゃないか、と思った。
三人は切符売り場の前で軽く挨拶を交わしている。遠いので何を話しているのかは分からない。
停車場の時計を見ると、もう五分で発車だ。早く汽車が来ればいいのにと、話し相手がいなくなったので待ち遠しく思っていると、また一人、慌てた様子で場内へ駆け込んできた者がいる。
見れば赤シャツだ。
何だかペラペラした着物に縮緬の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖をぶらつかせている。
あの金鎖は偽物だ。赤シャツは誰も知らないと思って見せびらかしているが、おれはちゃんと知っている。
赤シャツは駆け込むなり、辺りをキョロキョロと見回していたが、切符売り場の前で話している三人へ慇懃にお辞儀をして、何か二言、三言言葉を交わしたかと思うと、急にこっちを向いて、例のごとく猫足で歩いてきた。
「やあ、君も湯に行くのかい。乗り遅れやしないかと心配して急いできたんだが、まだ三、四分あるな。あの時計は確かだろうか」
そう言って自分の金時計を取り出し、二分ほど狂っていると言いながら、おれの傍らに腰を下ろした。
女の方はちっとも振り返らず、杖の上に顎を乗せて、正面ばかりを眺めている。
年配の婦人は時折赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままだ。
いよいよマドンナに違いない。
やがて、ピューと汽笛が鳴って、汽車が到着する。
待ち合わせていた連中は、我先にとぞろぞろ乗り込んでいく。
赤シャツはいの一番に上等車両へ飛び込んだ。
上等に乗ったからといって威張れるようなものではない。住田までは上等で五銭、下等で三銭だから、わずか二銭の違いでしかない。
こういうおれでさえ、上等を奮発して白切符を握っているのだから分かるだろう。
もっとも、田舎者はケチだから、たった二銭の差でもひどく苦になるらしく、たいていは下等に乗る。
赤シャツのあとから、マドンナとマドンナのお袋が上等へ入り込んだ。
うらなり君は、ハンコで押したように下等にしか乗らない男だ。
先生、下等の車両の入り口に立って、何だかためらっている様子だったが、おれの顔を見るやいなや、思い切って飛び込んでしまった。
おれはこの時、なんとなく気の毒でたまらなくなったので、うらなり君のあとを追って、すぐ同じ車両へ乗り込んだ。
上等の切符で下等に乗ることに、不都合はあるまい。
温泉へ着いて、三階から浴衣姿で湯壺へ下りてみたら、またうらなり君に会った。
おれは会議や何かでいざとなると喉が詰まって喋れなくなる男だが、普段はかなり弁が立つ方なので、いろいろと湯壺の中でうらなり君に話しかけてみた。
何だか哀れでたまらないのだ。こんな時は、一口でも相手の心を慰めてやるのが江戸っ子の義務だと思っている。
ところが、あいにくうらなり君の方は、うまくこちらの調子に乗ってくれない。
何を言っても「ええ」とか「いえ」としか返ってこないし、その「ええ」や「いえ」もずいぶん面倒くさそうなので、しまいにはとうとう話を切り上げて、こちらからお暇(いとま)した。
湯の中では赤シャツには会わなかった。
もっとも風呂場はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で会うとは限らない。別段不思議にも思わなかった。
風呂を出てみると、いい月夜だ。
町の両側には柳が植わっていて、柳の枝が丸い影を往来の中へ落としている。
少し散歩でもしよう。
北へ向かって町のはずれへ出ると、左手に大きな門があって、門の突き当たりがお寺で、左右が妓楼(ぎろう)になっている。
山門の中に遊郭があるなんて、前代未聞の現象だ。
ちょっと入ってみたい気もしたが、またタヌキから会議の時に何をされるか分からないから、やめて素通りにした。
門の並びに黒い暖簾をかけた、小さな格子窓の平屋がある。そこが、おれが団子を食べてしくじった場所だ。丸提灯(まるちょうちん)には「汁粉(しるこ)」「お雑煮(ぞうに)」と書かれた紙がぶら下がっていて、提灯の明かりが、すぐそばの柳の幹をぼんやりと照らしていました。
何か食べたいなと思いましたが、我慢して通り過ぎました。
食べたい団子が食べられないのは、なんとも情けないものです。
ですが、自分の婚約者が他の男に心を移してしまったというのは、それよりもっと情けないことでしょう。
そうやって「うらなり君」のことを考えると、団子なんてどうでもよくなり、三日くらいご飯を食べなくても文句は言えないな、という気持ちになりました。
本当に、人間というものは、あてにならないものです。
あの顔を見ると、どうしたってそんな薄情なことをしそうには見えないのに――。それなのに、あんなに美しい人が薄情で、冬瓜(とうがん)の水ぶくれみたいな古賀さんが善良な君子だなんて、油断も隙もあったもんじゃありません。

さっぱりした性格だと思っていた山嵐は、生徒をそそのかしたと言われています。
生徒をそそのかしたのかと思えば、今度は生徒を厳しく罰するように校長に迫っている。
嫌味を煮詰めたような赤シャツは、意外に親切で、陰ながらアドバイスをくれるのかと思えば、マドンナをだましている。だましているのかと思えば、今度は「古賀との婚約が破談にならない限り、結婚なんて望まない」なんて言い出すし――。
いか銀が難癖をつけておれを追い出したかと思えば、すぐに野だ公が入れ替わりでやってくるし――どう考えても、誰も彼も信用できません。
こんな話を東京の清(きよ)に手紙で書いたら、きっとびっくりすることでしょう。
「箱根の向こう側は、化け物ばかりが集まっているのね」なんて言うかもしれません。
おれはもともと細かいことを気にしない性格なので、どんなことでも苦にせず今日までやってきましたが、ここに来て一ヶ月も経たないうちに、急に世の中が物騒な場所に思えてきました。
特に大きな事件があったわけでもないのに、なんだか五つも六つも年を取ったような気がします。
早く切り上げて、東京へ帰るのが一番よさそうです。

あれこれと考えているうちに、いつの間にか石橋を渡って、野芹川(のせりがわ)の堤防に出ました。
川と呼ぶには大げさな、幅一メートルくらいのちょろちょろした流れですが、土手に沿って十二丁(約1.3キロ)ほど下ると相生村に出ます。
村には観音様があります。
温泉街の方を振り返ると、赤い提灯の明かりが、月の光の中でキラキラと輝いていました。
太鼓の音が聞こえるのは、遊郭に違いありません。
川の流れは浅いけれど速いので、神経質な水のようにやたらに光っています。
ぶらぶらと土手の上を歩いて、三丁(約330メートル)ほど進んだとき、向こうに人影が見え始めました。
月に透かしてみると、影は二つあります。
温泉に来ていた村へ帰る若い衆でしょうか。
それにしても、歌も歌わず、驚くほど静かです。
だんだん歩いていくと、おれの方が足が速いようで、二つの影法師が次第に大きく見えてきました。
一人は女性のようです。
おれの足音を聞きつけたのか、十メートルくらいの距離まで近づいたとき、男が急に振り返りました。
月は背後から差しています。
そのときおれは男の様子を見て、「おや?」と思いました。

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