自分たちが今ごろ飛び込んだって、「乱暴者だ」と言われて途中で遮られるだけだ。理由を話して面会を求めても、いないと逃げるか、別室へ案内されて終わりだ。不用意に踏み込んだところで、数十とある座敷のどこにいるかなんてわかるはずがない。退屈でも出てくるのを待つ以外に策はないと言うので、ようやくのことで朝の五時まで我慢した。
角屋から出る二人の影を見るや否や、俺と山嵐はすぐあとを尾けた。
一番電車はまだないから、二人とも城下まで歩かなければならない。
温泉の町をはずれると、一丁(約109メートル)ばかりの杉並木があって、左右は田んぼになっている。その杉並木を通り過ぎると、あちこちに藁ぶき屋根の家が見え、畑の中をまっすぐ城下町へと続く土手に出た。
町さえ外れてしまえば、どこで追いついても構わない。だが、できれば人目のないこの杉並木で捕まえてやろうと、俺たちは姿を隠しながら後をつけた。
町を抜けたところで、俺たちは急に駆け足になり、はやてのような速さで後ろから追いついた。
「何事だ!」と驚いて振り返る奴らに「待て!」と声をかけ、肩をつかんだ。
野だはパニックになって逃げ出そうとしたので、俺が先回りして道を塞いだ。
「教頭の身分で、何で角屋(かどや)なんかに泊まったんだ!」と山嵐がすぐに問い詰める。
「教頭が角屋に泊まってはいけないという規則でもありますか?」と、赤シャツは相変わらず丁寧な口調で答える。顔色は少し青ざめている。
「取締り上よろしくないからと、蕎麦屋や団子屋にさえ入るなと厳しく言うあんたが、なぜ芸者と一緒に宿屋に泊まったんだ!」
野だは隙を見て逃げようとするので、俺はすぐに前に立ちはだかり、「『べらんめえの坊っちゃん』だと? 何のつもりだ!」と怒鳴りつけた。
すると、「いや、君のことじゃないんです。全く、そんなつもりは……」と、図太く言い訳を並べやがる。
その時ふと気がついた。俺は両手で自分の着物の袂(たもと)をぎゅっと握りしめていた。
追いかける時に、中に入れた卵がぶらぶらして邪魔だったから、ずっと握ったまま走ってきたのだ。
俺はいきなり袂に手を入れて卵を二つ取り出すと、「くらえ!」と叫びながら、野だの顔面に投げつけた。
卵はぐちゃりと割れ、鼻先から黄身がだらだらと流れ落ちる。
野だはよほど驚いたのか、「わっ!」と叫んで尻もちをつき、「助けてくれ!」とわめいた。
もともと卵は食べるために買ったもので、ぶつけるために持っていたわけじゃない。ただ、あまりの腹立たしさに、つい投げつけてしまったのだ。
しかし、野だが尻もちをついたのを見て、俺は「成功だ!」と確信した。
「この畜生、この畜生!」と言いながら、残りの六つを無茶苦茶に投げつけると、野だの顔は黄色一色になった。
俺が卵をぶつけている間、山嵐と赤シャツはまだ言い争いの最中だった。
「僕が芸者を連れて宿屋に泊まったという証拠があるのか?」
「さっき、あんたのなじみの芸者が角屋に入ったのを見たんだぞ。誤魔化せると思うな!」
「誤魔化す必要なんてない。僕は吉川君と二人で泊まったんだ。芸者が入ろうが入るまいが、僕の知ったことじゃない!」
「黙れ!」と山嵐が拳骨(げんこつ)を食らわせる。
赤シャツはよろめきながら「乱暴だ、暴力だ! 理屈も聞かずに腕力に訴えるのは卑怯だぞ!」と叫ぶ。
「卑怯で十分だ!」と、山嵐はさらにぽかりと殴る。「あんたのような悪党は、殴らなきゃ分からないんだ!」
俺も同時に、野だを散々殴りつけた。
最後には二人とも杉の木の根元にうずくまり、動けないのか、目が回っているのか、逃げようともしなくなった。
「もう十分か? まだ殴られたいなら殴ってやるぞ!」と二人で追い打ちをかけると、「もうたくさんです!」と降参した。
野だにも「お前も十分か?」と聞くと、「もちろんです」と答える。
「お前たちは悪党だから、こうやって天誅(てんちゅう)を下したんだ。これに懲りて、今後は行いを改めろ。どんなに口先で巧みに言い訳をしても、正義は許さんぞ!」と山嵐が言い放つと、二人は黙り込んだ。もしかすると、口をきく気力すらないのかもしれない。
「俺は逃げも隠れもしない。今夜の五時までは浜の港屋にいる。文句があるなら、警察でも何でも呼べ!」と山嵐が言うので、俺も「俺も逃げも隠れしないぞ。堀田と同じ場所にいるから、訴えたければ勝手に訴えろ!」と言い捨て、二人でスタスタと歩き出した。
俺が下宿へ帰ったのは七時少し前だった。
部屋に入ってすぐに荷造りを始めると、おばあさんが驚いて「どうされるのですか?」と聞いてきた。
「おばあさん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだ」と答え、支払いを済ませてすぐに汽車に乗り、浜の港屋へ向かうと、山嵐は二階で寝ていた。
俺は早速辞表を書こうと思ったが、書き方が分からないので、「私儀、都合により辞職の上、東京へ帰りますので、その旨ご承知おきください」と書き、校長宛てに郵便で出した。
汽船は夜六時の出帆である。
山嵐も俺も疲れ果ててぐっすりと眠り込み、目が覚めたのは午後二時だった。
下女に「巡査は来なかったか?」と聞くと、「いいえ」という答えだった。
「赤シャツも野だも、結局訴えなかったな」
二人は顔を見合わせて大笑いした。
その夜、俺と山嵐はこの汚れた土地を離れた。
船が岸から遠ざかるほど、清々しい気持ちになった。
神戸から東京まで直行し、新橋に着いた時は、ようやく人間らしい世界に戻ってきたような気がした。
山嵐とはそこで別れたきり、今日まで会う機会はない。
清(きよ)の話をするのを忘れていたな。東京に着いて、下宿にも寄らず、革の鞄を持ったまま「清、帰ったよ!」と勢いよく飛び込むと、清は「あら、坊っちゃん! よくまあ、こんなに早く帰ってきてくださったんですね」と言って、涙をポロポロとこぼしました。
おれもあまりに嬉しくて、「もう二度と田舎なんて行かない。東京で清と一緒に家を持って暮らすんだ」と約束しました。
その後、知り合いの紹介で、おれは路面電車の技手として働くことになりました。
月給は二十五円で、家賃は六円です。
清は、玄関がついているような立派な家じゃなくても、おれと一緒にいられるだけでこの上なく満足そうでした。しかし、気の毒なことに、今年の二月に肺炎にかかって亡くなってしまいました。
死ぬ前日、清はおれを枕元に呼んで言いました。
「坊っちゃん、一生のお願いです。私が死んだら、坊っちゃんのお寺に埋めてください。お墓の中で、坊っちゃんが来るのをずっと楽しみに待っていますからね」
というわけで、清のお墓は小日向にある養源寺にあります。
(明治三十九年四月)
初級翻訳・坊つちやん 第34話
坊つちやん
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