初級翻訳・坊つちやん 第6話

坊つちやん

今日学校へ行って、みんなにあだ名をつけた。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこだ。今度またいろいろなことを書いてやる。さようなら」

手紙を書き終えると、いい気持ちになって眠気がさしてきたので、さっきのように部屋の真ん中で伸び伸びと大の字に寝た。
今度は夢も見ずにぐっすり眠った。
「この部屋かい」という大きな声で目が覚めると、山嵐が入ってきた。
「先ほどは失敬。君の受け持ちは……」と、俺が起き上がるなり話が始まったので、大いに慌てた。
受け持ちを聞いてみると、特に難しいこともなさそうだったので承知した。
この程度の仕事なら、明後日と言わず明日から始めろと言われても驚かない。
授業の打ち合わせが終わると、山嵐は「君もいつまでこんな宿屋にいるつもりでもあるまい。僕がいい下宿を世話してやるから移りたまえ。他の者の話なら承知しないが、僕が言えばすぐ決まる。早い方がいいから、今日見て、明日移って、明後日から学校へ行けば格好がつく」と、勝手に話を進めていく。
なるほど、十五畳の部屋にいつまでもいるわけにはいかない。月給を全部宿代に払っても足りなくなるかもしれない。
五円のチップを奮発したばかりで宿を移るのは少し残念だが、どうせ移るなら、早く引っ越して落ち着くほうが便利だ。その辺は山嵐に頼むことにした。

山嵐は「ともかく一緒に来てみろ」と言うので、ついて行った。
町外れの丘の中腹にある家で、非常に静かな場所だ。
主人は骨董品を売買する「いか銀」という男で、女房は亭主よりも四つほど年上の女だ。
中学校にいた時「ウィッチ(魔女)」という言葉を習ったことがあるが、この女房はまさにウィッチにそっくりだった。
まあ、ウィッチだって人の女房だから構わない。
結局、明日から引っ越すことに決めた。
帰りに山嵐は通町で氷水を一杯おごってくれた。
学校で会った時は、ずいぶん横柄で失敬な奴だと思ったが、こうしていろいろ世話をしてくれるところを見ると、悪い男ではなさそうだ。
ただ俺と同じように、せっかちで短気な性格らしい。あとで聞いた話では、この男が一番生徒たちから慕われているらしい。

いよいよ学校へ出る日が来た。
初めて教室に入って、教壇という高い所に立った時は、何だか妙な気分だった。
講釈をしながら、こんな俺でも先生が勤まるものなのか、と不思議に思った。
生徒たちは実にやかましい。
時々、図抜けて大きな声で「先生」と呼ぶ。
「先生」という言葉が、直接耳に響いてくる。
今まで物理学校では、毎日毎日「先生、先生」と人に向かって呼びかけていたが、いざ自分が呼ぶのと、呼ばれるのとでは大違いだ。
なんだか足の裏がむずむずするような居心地の悪さがある。
俺は卑怯な人間ではないし、臆病な男でもないが、惜しいことに肝が小さい。
「先生!」と大声で呼ばれると、腹を空かせている時に丸の内の午砲(どん)を聞いたような、びくっとする感覚に襲われる。
最初の一時間は、なんだかいい加減にやり過ごしてしまった。
しかし、これといって困るような質問もされずに済んだ。
控室へ戻ってくると、山嵐が「どうだった?」と聞いてきた。
「うん」と短く返事をしたら、山嵐は安心したようだった。

二時間目に白墨(チョーク)を持って控室を出た時は、なんだか敵陣へ乗り込んでいくような気分だった。
教室へ行くと、今度の組は前よりも大きな奴ばかりが揃っている。
俺は江戸っ子で華奢に小作りにできているから、どうも高い所に上がっても威厳が利かない。
喧嘩なら相撲取り相手でもやってみせるが、こんな大男を四十人も前に並べて、ただ一枚の舌先だけで相手を恐縮させるような手際なんて持ち合わせていない。
だが、こんな田舎者に弱みを見せると癖になると思ったから、なるべく大きな声を出して、少々巻き舌気味に講釈をぶってやった。
最初のうちは、生徒たちも煙に巻かれてぼんやりしていたから、「それ見ろ」とますます得意になって、べらんめい調を混ぜて喋っていたら、一番前の列の真ん中にいた、一番強そうな奴がいきなり起立して「先生」と言った。
「そら来た」と思いながら、「何だ?」と聞くと、そいつは「あまり早くて分からんけえ、もうちょっと、ゆるゆるやってくれんかな、もし」と言った。
「やってくれんかな、もし」だなんて、生ぬるい言葉だ。
早すぎるならゆっくり言ってやるが、俺は江戸っ子だから君たちのその言葉は使えない。分からなければ、分かるまで待っているがいい、と答えてやった。
この調子で二時間目は思ったよりも上手くいった。

ただ、帰りがけに生徒の一人が「ちょっとこの問題を解釈してくれんかな、もし」と、自分でも出来そうにない幾何の問題を持って詰め寄ってきた時には冷や汗を流した。
仕方がないから「なんだか分からん。今度教えてやる」と適当に言って、急いで引き揚げようとしたら、生徒たちが「わあ」と囃し立てた。
その中に「出来ん、出来ん」という声が聞こえる。
箆棒(べらぼう)め、先生だって出来ない問題があるのは当たり前だ。
出来ないことを「出来ない」と言うのに、何か不思議なことでもあるのか。
そんな問題が解けるくらいなら、四十円の月給でこんな田舎へ来るもんか、と心の中で毒づきながら控室へ戻ってきた。
「今度はどうだ」とまた山嵐が聞いてきた。
「うん」と答えたが、それだけでは気が済まなかったので、「この学校の生徒は分からず屋だな」と言ってやった。
山嵐は妙な顔をしていた。

三時間目も、四時間目も、昼過ぎの一時間も大同小異だった。
最初の日に行ったどのクラスでも、いずれも少しずつ失敗をしてしまった。
教師という仕事は、はたから見ているほど楽なものじゃない。
授業はひと通り済んだが、まだ帰れない。三時までぽつんとして待っていなくてはならないのだ。
三時になると、受け持ちのクラスの生徒が掃除を終えて報告に来るから、それを検分する決まりになっている。
それから出席簿を一通り調べて、ようやく暇が出る。
いくら月給で買われた身分とはいえ、空いた時間まで学校に縛りつけて、机と睨めっこをさせるなんて法があるものか。
しかし、ほかの連中はみんな大人しく規則通りにやっているから、新参者の俺ばかりがだだを捏ねるのもよくないと思い、我慢していた。
帰りがけに、山嵐へ「君、何でもかんでも三時過ぎまで学校にいさせるのは愚かなことだぜ」と訴えたら、山嵐は「そうさ、アハハハ」と笑ったが、あとから真面目な顔になって、「君、あまり学校の不平を言うと、いかんぜ。言うなら僕だけに話せ。随分と妙な人間もいるからな」と、忠告めいたことを言った。
四つ角で分かれたから、詳しいことを聞く暇もなかった。

それから家へ帰ってくると、宿の亭主が「お茶を入れましょう」と言ってやってくる。
「お茶を入れる」と言うから、何かご馳走してくれるのかと思えば、俺の茶葉を遠慮なく使い、自分も一緒に飲んでいるのだ。
この様子だと、俺の留守中も勝手に「お茶を入れましょう」を一人で実行しているのかもしれない。
亭主が言うには、「手前は書画骨董が好きで、とうとうこんな商売を内々で始めるようになりました。

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