初級翻訳・坊つちやん 第5話

坊つちやん

そんなに偉い人間が、月給四十円でわざわざこんな田舎まで来るものか。
人間なんて、だいたい似たようなものだ。
腹が立てば喧嘩の一つくらいは誰だってするだろうと思っていたが、この様子じゃ、めったに口も利けないし、散歩だって自由にはできない。
そんな難しい役目なら、雇う前に「こういう仕事だ」とはっきり話せばいいのに。
俺は嘘をつくのが嫌いだ。仕方がない、騙されてここまで来たのだと諦めて、思い切ってここで断って帰ってしまおうと考えた。
宿屋にチップで五円もやってしまったから、財布の中には九円ちょっとしか残っていない。
九円じゃ東京までは帰れない。
チップなんかやらなければよかった。惜しいことをした。
しかし、九円だって、なんとかならないことはない。
旅費が足りなくなっても、嘘をつくよりはましだと思って、「到底、あなたのおっしゃる通りにはできません。この辞令はお返しします」と言ったら、校長は狸のような目をパチパチさせて俺の顔を見ていた。
やがて、「今のはただの希望だ。あなたが希望通りにできないのはよく知っているから、心配しなくていい」と言いながら笑った。
そのくらいよく知っているなら、最初から脅かさなくてもいいのに。
そうこうしているうちに、ラッパが鳴った。
教室の方が急にガヤガヤし始めた。
「もう教員も控室に揃いましたでしょう」と言うので、校長の後について教員控室へ入った。
広い細長い部屋の周囲に机が並べてあり、みんなそこに腰掛けている。
俺が入ったのを見て、みんな申し合わせたように一斉に俺の顔を見た。
見世物じゃあるまいし。
それから言われた通り、一人一人の前へ行って辞令を差し出し、挨拶をした。
たいていは椅子から腰を浮かせて軽く頭を下げるだけだったが、中には念の入った奴がいて、差し出した辞令をわざわざ受け取って一通り拝見してから、恭しく返却してきた。
まるで芝居の真似事だ。
十五人目に体操の教師のところへ回ってきた時には、同じことを何度もやるので少々うんざりした。
相手は一度で済むが、こっちは同じ動作を十五回も繰り返している。
少しは相手の気持ちも察してほしいものだ。
挨拶をした中に、教頭の何某というのがいた。
この男は文学士だそうだ。文学士と言えば大学の卒業生だから、さぞかし偉い人なんだろう。
妙に女のような優しい声を出す人だった。
もっとも驚いたのは、こんなに暑いのにフランネルのシャツを着ていることだ。
いくらか薄い生地だとしても、暑いのは間違いない。
文学士だけにご苦労千万な服装をしたもんだ。
しかもそれが赤シャツだから、人を馬鹿にしている。
あとから聞いたら、この男は年がら年中その赤シャツを着ているんだそうだ。
妙な病気を持ったものだ。
本人の説明では、赤は体に薬になるから、衛生のためにわざわざ誂えているんだそうだが、余計なお世話だ。
それならいっそのこと、着物も袴も赤にすればいい。
それから英語の教師に、古賀とかいう大変顔色の悪い男がいた。
たいてい顔の青い人は痩せているものだが、この男は青くふくれている。
昔、小学校へ通っていた時分、浅井の民さんという子が同級生にいたが、この浅井の親父がやはりこんな色つやをしていた。
浅井は百姓だから、「百姓になるとあんな顔になるのか」と清に聞いてみたら、「いいえ、あの人はうらなりの唐茄子ばかり食べるから、青くふくれるんです」と教えてくれた。
それ以来、青くふくれた人を見れば、必ず「うらなりの唐茄子を食った報いだ」と思うことにしている。
この英語の教師も、うらなりばかり食っているに違いない。
もっとも、「うらなり」とは何のことか、今もって知らない。
清に聞いてみたことはあるが、清は笑って答えなかった。
たぶん清も知らないんだろう。
それから俺と同じ数学の教師に、堀田というのがいた。
これは逞しい毬栗坊主で、比叡山の悪僧と呼ぶべき面構えをしている。
人が丁寧に辞令を見せても見向きもせず、「やあ、君が新任の人か。ちと遊びに来給え、アハハハ」と言った。
何がアハハハだ。
そんな礼儀を知らない奴のところへ、誰が遊びに行くものか。
俺はこの時から、この坊主に「山嵐」というあだ名をつけてやった。漢学の先生は、さすがに堅苦しいところがある。
昨日到着したばかりで、さぞかしお疲れだろうに、もう授業を始めようと張り切っていて、「精が出ますねえ」とひっきりなしに喋りまくる、愛嬌のあるお爺さんだ。
画学の教師は、まるで芸人みたいな男だった。
ペラペラの透綾(すきや)の羽織を着て、扇子をパチパチと鳴らしながら、「お国はどちらでげす? え、東京? そりゃ嬉しい、お仲間ができて……私もこれで江戸っ子です」と言った。
こんなのが江戸っ子だというなら、江戸に生まれたくもないもんだ、と心の中で思った。
そのほか一人ひとりについて書き出せばきりがないから、この辺でやめておく。

挨拶が一通り済むと、校長が「今日はもう帰っていい。ただし、授業については数学の主任と打ち合わせをしておいて、明後日から授業を始めてくれ」と言った。
数学の主任が誰かと聞いてみたら、例の「山嵐」だった。
忌々しい。こいつの下で働くのか。おやおや、と失望した。
山嵐は「おい君、どこに泊まっている? 山城屋か。うん、今から行って相談する」と言い残して、白墨を手に教場へ出て行った。
主任のくせに、わざわざ向こうから来て相談するなんて、配慮の足りない男だ。
だが、俺を呼びつけるよりはマシか。

学校の門を出て、すぐに宿へ帰ろうと思ったが、帰ったところで退屈なだけだから、少し町を散歩してやろうと思い、あてもなく足の向くまま歩き回った。
県庁も見た。前世紀の古い建築物だ。
兵営も見た。麻布の連隊より立派じゃない。
大通りも見た。神楽坂を半分に狭くしたくらいの道幅で、町並みもあそこより見劣りする。
二十五万石の城下町だって、たかが知れたものだ。
こんな所に住んで「城下町だ」と威張っている人間は可哀想なものだな、と考えながら歩いていると、いつの間にか山城屋の前に戻っていた。
広いようでいて、狭いものだ。
これでだいたい見尽くしただろう。帰って飯でも食おうと門をくぐった。
帳場に座っていた女将さんが、俺の顔を見るなり急に飛び出してきて、「おかえりなさいませ」と板の間に頭をつけた。
靴を脱いで上がると、下女が「お座敷が空きましたから」と二階へ案内してくれた。
十五畳の表二階で、大きな床の間がついている。
俺は生まれてから、こんな立派な座敷に入ったことはない。
次いつ入れるか分からないから、洋服を脱いで浴衣一枚になり、部屋の真ん中で大の字に寝転んでみた。
いい気分だ。

昼飯を食ってから、早速清へ手紙を書くことにした。
俺は文章が下手なうえに漢字もよく知らないから、手紙を書くのは大嫌いだ。出す宛先もないし。
だが、清は心配しているだろう。難破して死んだんじゃないかと思われても困るから、奮発して長文を書いてやった。
その内容はこうだ。

「昨日着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋にチップを五円やった。女将さんが頭を板の間にすりつけた。昨夜は眠れなかった。清が笹飴を笹ごと食べている夢を見た。来年の夏には帰る。

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