初級翻訳・坊つちやん 第20話

坊つちやん

なるほど読みにくい。字が下手なばかりではない、ほとんどが平仮名だから、どこで切れてどこで始まるのか、句読点をつけるのにも相当骨が折れる。おれはせっかちな性分だから、こんな長くてわかりにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断るようなものだが、この時ばかりは真面目になって、最初から最後まで読み通した。
読み通したのは事実だが、読むのに骨が折れて意味がつながらないから、また最初から読み直してみた。部屋の中は少し暗くなって、さっきより見にくくなったから、とうとう縁側へ出て腰をかけながら、丁寧に拝見した。すると初秋の風が芭蕉の葉を揺らして、火照った肌をなでて通り過ぎるついでに、読みかけの手紙を庭のほうへとなびかせた。おかげで手紙の終わりにある四尺(約1.2メートル)ほどの長い切れ端が、さらりさらりと音を立てる。手を離せば、そのまま向こうの生垣まで飛んでいってしまいそうだ。

おれはそんなことにかまっていられない。
清の手紙にはこう書いてあった。
――坊っちゃんは竹を割ったようなまっすぐな気性だけど、ただ怒りっぽいところが心配でなりません。ほかの人にむやみにあだ名をつけるのは、恨みを買うもとになるからやめたほうがいいですよ。もしつけてしまったら、清だけに手紙で教えてくださいね。
――田舎の人は性根が悪いといいますから、気をつけて、ひどい目に遭わないようにしてください。
――気候だって東京より不順に決まっていますから、寝冷えをして風邪をひいてはいけませんよ。
坊っちゃんの手紙はあまりに短すぎて様子がよくわかりませんから、次はせめてこの手紙の半分くらいの長さのものを書いてください。
――宿屋へチップとして五円やるのはいいですが、あとで困りませんか。田舎へ行って頼りになるのはお金だけですから、なるべく倹約して、万が一の時に困らないようにしておかなくてはいけませんよ。
――お小遣いがなくて困っているかもしれないから、為替で十円送ります。
――この前坊っちゃんからもらった五十円は、坊っちゃんが東京へ帰ってきて自分の家を持つ時の足しになればと思って、郵便局へ預けておきました。この十円を引いてもまだ四十円残っていますから大丈夫ですよ。

――なるほど、女というものは細かいものだな。
おれが縁側で清の手紙をひらつかせながら考え込んでいると、仕切りのふすまが開いて、萩野のお婆さんが晩ごはんを持ってきた。
「まだ見ていらっしゃるのですか。随分と長いお手紙ですねえ」
そう言われたので、「ええ、大事な手紙だから、風に吹かしては読み、また吹かしては読んでいるんです」と、自分でも何を言っているのかわからないような返事をして膳についた。

見ると今夜もサツマイモの煮つけだ。
ここの宿は「いか銀」よりも丁寧で親切で、しかも上品なのだが、惜しいことに料理がまずい。
昨日もイモ、一昨日もイモ、そして今夜もイモだ。
おれはイモが大好きだと明言したことは確かだが、こう立て続けにイモを食べさせられては命がもたない。
うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、イモの「うらなり先生」になっちまう。
清ならこんな時、おれの好きなマグロの刺身か、かまぼこのつけ焼きを出してくれるだろうに、貧乏士族のケチん坊ときちゃどうしようもない。
どう考えても清と一緒でなくちゃダメだ。もしあの学校に長くいるつもりなら、東京から呼び寄せてやろう。
天ぷらそばを食っちゃいけない、団子を食っちゃいけない、それで下宿でイモばかり食べて黄色くなっていろなんて、教育者っていうのはつらいものだ。禅宗のお坊さんだって、これよりはまだいいものを食べているだろう。

おれは一皿のイモを平らげると、机の引き出しから生卵を二つ出して、茶碗の縁で叩き割り、ようやく空腹をしのいだ。
生卵ででも栄養をとらなくちゃ、一週間に二十一時間の授業なんてできるものか。

今日は清の手紙を読んでいたせいで、お風呂に行く時間が遅くなってしまった。
しかし、毎日通い詰めた習慣を一日でも欠かすのは気分が悪い。汽車にでも乗って出かけようと、例の赤い手拭いをぶら下げて停車場まで来ると、二、三分前に発車したばかりで、少し待たなければならなくなった。
ベンチへ腰をかけて「敷島」をふかしていると、偶然にもうらなり君がやってきた。
おれはさっき聞いた話のせいで、うらなり君がますます気の毒になった。
普段から天地の間に居候でもしているかのように、小さく縮こまっているのがいかにもかわいそうに見えたが、今夜はかわいそうどころの騒ぎではない。
できることなら給料を倍にして、遠山のお嬢さんと明日から結婚させて、一ヶ月くらい東京へでも遊びに行かせてやりたい。そんな気分だったから、「おや、お風呂ですか。さあ、ここへお掛けなさい」と威勢よく席を譲ると、うらなり君は恐縮した様子で、「いえ、構わないでください」と遠慮なのか何なのか、やっぱり立っている。
「少し待たなくちゃ電車は来ませんし、疲れるでしょうから座ってください」とまた勧めてみた。
実は、どうにかして隣に座ってもらいたいくらい、気の毒でたまらないのだ。
「それではお邪魔をいたします」と、ようやくおれの言うことを聞いてくれた。

世の中には、野だみたいに生意気で、出なくてもいい場所に必ず顔を出す奴もいる。
山嵐のように「おれがいないと日本が困るだろう」というような顔を肩の上に乗せている奴もいる。
そうかと思うと、赤シャツのように化粧品と色男の問屋を兼ねていると自負しているようなのもいる。
教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと言わんばかりのタヌキもいる。
みんなそれぞれ威張っているが、このうらなり先生のように「いてもいなくても同じ」というくらい、人質に取られた人形みたいに大人しくしている奴は見たことがない。
顔はふくれているが、こんな立派な男を捨てて赤シャツに靡くなんて、マドンナもよっぽど見る目のないおきゃんだ。赤シャツが何ダース集まったところで、これほど立派な旦那様が出来るもんか。
「あなたはどこか具合でも悪いのですか。ずいぶんと辛そうに見えますが……」
「いえ、これといって持病があるわけでもないのですが……」
「それは結構です。体が悪いと人間もダメになりますからね」
「あなたは随分と丈夫そうですね」
「ええ、痩せてはいても病気はしません。病気なんてものは大嫌いですから」
 うらなり君は、おれの言葉を聞いてニヤニヤと笑った。
その時、入り口の方から若々しい女の笑い声が聞こえたので、何気なく振り返ってみると、とんでもない奴が来た。
肌が白く、ハイカラな髪型をした背の高い美人と、四十五、六歳くらいの奥さんが並んで、切符売り場の窓口の前に立っている。
おれは美人の形容なんて気の利いたことは言えないが、とにかく文句なしの美人だ。
何だか水晶の玉を香水で温めて、掌で握ってみたような、そんな不思議な気分になった。
年配の女性の方が背は低い。しかし顔つきがよく似ているから、親子だろう。
おれは、「おっ、来たな」と思った途端に、うらなり君のことなどすっかり忘れて、若い女の方ばかり見つめていた。

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