初級翻訳・坊つちやん 第33話

坊つちやん

とにかく、家でもう一度考え直してみてくれ」
考え直すと言われても、変えようのない明々白々な理由だが、狸が青くなったり赤くなったりして、なんだかかわいそうになってきたので、ひとまず考え直すことにして引き下がった。
赤シャツには一言も口をきかなかった。どうせ仕返しをするなら、まとめてうんと痛い目を見せてやる方がいい。
山嵐に狸との談判の様子を話すと、だいたいそんなことだろうと思ったそうだ。辞表の件はいざという時までそのままにしておいても差し支えないだろうという話だったので、山嵐の言う通りにした。どうも山嵐の方が俺よりも賢いようだから、万事その忠告に従うことにしたのだ。
山嵐はいよいよ辞表を出し、職員一同に別れの挨拶をして浜の港屋まで下ったが、誰にも気づかれないように引き返して、温泉町の枡屋の二階に潜り込み、障子に穴をあけて外を覗き始めた。
これを知っているのは俺だけだろう。赤シャツがこっそりやって来るとしたら、どうせ夜だ。しかも宵の口は生徒や周囲の目があるから、少なくとも九時過ぎに決まっている。
最初の二晩は俺も十一時頃まで張番をしたが、赤シャツの影すら見えない。
三日目には九時から十時半まで覗いたが、やはり空振りだった。無駄足を運んで夜中に下宿へ帰るほど馬鹿げたことはない。
四、五日経つと、下宿の婆さんが少し心配し始めて、奥さんがいらっしゃるのに夜遊びはおやめになったほうがいいですよ、と忠告してきた。
そんな夜遊びとはわけが違う。こっちのは、天に代わって悪人を成敗するための夜遊びだ。
とはいうものの、一週間も通って何の成果も見えないと、さすがに嫌になってくるものだ。俺は気が短い性格だから、熱中すると徹夜でもして仕事をするが、その代わり何事も長続きした試しがない。いくら天誅党でも、飽きるということに変わりはないのだ。
六日目には少々嫌になり、七日目にはもう休もうかと思った。
その点、山嵐は頑固なものだ。宵から十二時過ぎまでは目を障子に貼り付けて、角屋の丸いガス灯の下を睨み続けている。
俺が行くと、「今日は客が何人あって、宿泊が何人、女が何人」といろいろな統計を示すので驚かされた。
「どうも来ないようじゃないか」と言うと、「うん、確か来るはずなんだが」と、時々腕組みをして溜息をつく。
かわいそうに、もし赤シャツがここへ一度も来てくれなかったら、山嵐は一生、天誅を加えることができないのである。
八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆっくりと湯に浸かってから、町で鶏卵を八つ買った。これは、下宿のおばあさんからの「芋を食べてばかりいないで、たまには栄養のあるものを」という小言をかわすための作戦だった。
その卵を四つずつ左右の袖に入れて、いつもの赤い手ぬぐいを肩にかけ、懐に手を入れたまま、枡屋の階段を駆け上がって山嵐の部屋の障子を開けると、さっきまでの「有望、有望」と韋駄天(いだてん)のように目を輝かせていた顔が、急にパッと活気づいた。
昨夜までは少しふさぎ込んでいて、そばで見ている俺さえ陰気臭いと感じるほどだったが、この表情を見たら、俺も急にうれしくなって、何も聞く前から「愉快、愉快!」と声を上げた。
「今夜七時半ごろ、あの小鈴という芸者が角屋(かどや)へ入ったんだ」
「赤シャツと一緒に?」
「いや、別々だ」
「それじゃあダメだな」
「芸者は二人連れだったが……どうも怪しいんだ」
「どうして?」
「どうしてって、あいつは狡(ずる)い奴だから、芸者を先に行かせて、後からこっそり忍んでくるかもしれないだろう」
「そうかもしれないな。もう九時か?」
「今、九時十二分すぎだ」と、帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら言った。「おい、ランプを消してくれ。障子に二人の坊主頭が映ったら変だろう。あの狐はすぐに疑うからな」
俺は、一貫張(いっかんばり)の机の上にあった置きランプをふっと吹き消した。
星明かりで、障子だけがぼんやりと明るい。月はまだ出ていない。
俺と山嵐は、一生懸命に障子へ顔を近づけ、息を殺して見張った。
チーンと、九時半を知らせる柱時計が鳴った。
「おい、来るだろうか。今夜来なかったら、俺はもう嫌だぞ」
「俺は金が続く限りやるつもりだ」
「金はいくらあるんだ?」
「今日までで八日分、五円六十銭払った。いつ飛び出してもいいように、毎晩精算しているんだ」
「そりゃあ手回しがいいな。宿の連中も驚いているだろう」
「宿屋はいいんだが、気が休まらなくて困るよ」
「その代わり、昼寝はできるだろう?」
「昼寝はするが、外出できないのが窮屈でたまらない」
「天誅(てんちゅう)も楽じゃないな。これで天の網をくぐり抜けられたりしたら、つまらないぞ」
「何、今夜はきっと来るよ。――おい、見ろ! 見ろ!」と小声になったので、俺は思わずドキリとした。
黒い帽子をかぶった男が、角屋のガス灯を下から見上げたまま、暗い方へ通り過ぎていった。
違っていた。
おやおや、と思った。
そうこうするうちに、帳場の時計が遠慮なく十時を打った。
今夜もとうとうダメらしい。
世間はだいぶ静かになった。遊郭で鳴らす太鼓の音が、すぐそばで聞こえるようだ。
月が温泉の山の向こうから、のっと顔を出した。通り道が明るくなる。
すると、下の方から人の声が聞こえだした。
窓から首を出すわけにはいかないから姿を確認することはできないが、だんだん近づいてくる気配がする。
からんからんと、駒下駄を引きずる音がする。
目を斜めにすると、やっと二人の影法師が見えるくらいまで近づいてきた。
「もう大丈夫ですね。邪魔者は追っ払ったから」と、間違いなく野田の声だ。
「強がるばかりで策がないから、仕様がない」これは赤シャツだ。
「あの男も『べらんめえ』に似ていますね。あの『べらんめえ』と来たら、勇み肌の坊ちゃんだから愛嬌がありますよ」
「増給がいやだの、辞表を出したいのって、あれは神経に異常があるに決まっている」
俺は窓を開けて、二階から飛び降りて、思う存分打ちのめしてやろうと思ったが、なんとかこらえた。
二人はハハハと笑いながら、ガス灯の下をくぐって角屋の中へ入っていった。
「おい」
「おい」
「来たぞ」
「とうとう来たな」
「これでようやく安心だ」
「野田の畜生、俺のことを『勇み肌の坊ちゃん』だと抜かしやがった」
「『邪魔者』というのは、俺のことだぜ。失敬千万な」
俺と山嵐は、二人の帰り道を待ち伏せして襲わなければならない。
しかし、二人がいつ出てくるか見当がつかない。山嵐は下へ行って、「今夜はことによると夜中に用事があって出るかもしれないから、出入りできるようにしておいてくれ」と頼んできた。
今思うと、よく宿の連中が承知したものだ。普通なら泥棒と間違われるところだ。
赤シャツの来るのを待ち受けるのもつらかったが、出てくるのをじっと待っているのはさらにつらい。
寝るわけにはいかないし、ずっと障子の隙間から睨んでいるのもきつい。どうにもこうにも心が落ち着かなくて、これほど難儀な思いをしたことは今までなかった。
いっそのこと角屋へ踏み込んで、現場を押さえようと提案したが、山嵐は一言で俺の申し出を却下した。

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