初級翻訳・坊つちやん 第14話

坊つちやん

悪いことをしなければいいんでしょう」

赤シャツは「ホホホホ」と笑った。
別段、おれは笑われるようなことを言った覚えはない。今日この瞬間まで、自分のやり方でいいと固く信じている。
よく考えてみると、世間の大部分の人間は、悪いことをすることを奨励しているように思える。悪いことをしなければ社会で成功しないと信じ込んでいるらしい。たまに正直で純粋な人を見ると、「坊ちゃん」だの「小僧」だのと難癖をつけて軽蔑する。
それなら、小学校や中学校で「嘘をつくな」「正直にしろ」と倫理の先生が教えないほうがいい。いっそ思い切って、学校で「嘘をつく法」とか「人を信じない術」とか「人をうまく乗せる策」を教えるほうが、世の中のためにも本人たちのためにもなるだろう。
赤シャツが「ホホホホ」と笑ったのは、おれの単純さを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中なんて、どうしようもない。
清はこんな時、決して笑ったりしなかった。大いに感心して話を聞いてくれたものだ。清のほうが赤シャツよりよっぽど上等だ。

「もちろん、悪いことをしなければいいんですが、自分だけが悪いことをしなくても、他人の悪意が分からなければ、やっぱりひどい目に遭うでしょう。世の中には、磊落(らいらく)そうに見えても、さっぱりしていても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断できない人間がいますから……。大分寒くなりましたね。もう秋ですね、浜の方は霧でセピア色になった。いい景色だ。おい、吉川君、どうだい、あの浜の景色は……」と、赤シャツは大きな声を出して野だを呼んだ。
「なるほど、これは奇跡的な絶景ですね。時間があれば写生するんですが、惜しいですね、このままにしておくのは」と、野だは調子よく褒めちぎる。

港屋の二階に灯りが一つ灯り、汽車の笛が「ヒュー」と鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯の砂へ「ざぐり」と舳先(へさき)を突き込んで動かなくなった。
「お早う、お帰りなさい」と、おかみさんが浜に立って赤シャツに挨拶する。
おれは船端から、やっと掛け声をかけて磯へ飛び降りた。

野だは大嫌いだ。こんな奴は漬物石でも括りつけて海の底へ沈めてしまうほうが、日本の国のためだ。
赤シャツは声が気に食わない。あれは自分の声をわざと気取って、あんなに優しそうに見せているんだろう。いくら気取ったって、あの顔じゃダメだ。惚れるものがあるとしたら、マドンナぐらいなものだろう。
しかし、教頭だけに野だよりは難しいことを言う。家に帰って、あいつの言い分を考えてみると、一理あるようにも思えてくる。はっきりとしたことは言わないから見当がつかないけれど、どうやら「山嵐はろくでもない奴だから用心しろ」と言いたいらしい。
それならそうとはっきり断言すればいいのに、男らしくないな。
それに、そんなに悪い教師なら、さっさとクビにすればいいだろう。
教頭なんて文学士のくせに、度胸がないやつだ。
陰口を叩くときですら堂々と名前を言えないなんて、弱虫に決まっている。
弱虫は往々にして親切なものだから、あの赤シャツも女みたいな親切心を持っているんだろう。
親切は親切、声は声だ。声が気に入らないからといって、親切まで無駄にするのは筋が違う。
それにしても世の中は不思議なものだ。虫の好かない奴が親切で、気が合う友達が悪漢だなんて、人を馬鹿にしている。
たぶん田舎だから、何もかも東京とは逆に行くんだろう。
物騒なところだ。
そのうち火事が凍りついて、石が豆腐になるかもしれない。
しかし、あの山嵐が生徒を煽動(せんどう)して悪さをするなんて、とてもそうは思えないけれどな。
一番人望がある教師だと言うから、やろうと思えばたいていのことはできるかもしれないが――第一、そんな回りくどいことをしなくても、直接おれを捕まえてケンカを吹っかければ手間が省けるというものだ。
おれが邪魔になるなら、「実はこれこれこうで邪魔だから辞職してくれ」と言えばいいじゃないか。
物事は相談次第でどうにでもなる。
向こうの言い分がもっともなら、明日にでも辞職してやる。
ここだけに米があるわけでもあるまい。
どこの果てに行ったって、のたれ死にはしないつもりだ。
山嵐もよっぽど話の通じない奴だな。
ここへ来た時、一番最初に氷水を奢ってくれたのは山嵐だ。
そんな裏表のある奴から氷水なんて奢られては、おれの顔に関わる。
おれはたった一杯しか飲まなかったから、一銭五厘しか払わせてはいない。
しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで気分が悪い。
明日学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。
おれは清から三円借りている。
その三円は、五年経った今日までまだ返していない。
返せないんじゃない。返さないんだ。
清は「今に返すだろう」なんて、かりそめにもおれの懐をあてにしてはいない。
おれも「今に返そう」なんて、他人行儀な義理立てはしないつもりだ。
こっちがそんな心配をすればするほど清の心を疑うようなもので、清の美しい心に泥を塗るのと同じことだ。
返さないのは清を軽んじているからじゃなく、清をおれの分身だと思っているからだ。
清と山嵐とはもちろん比べ物にならないが、たとえ氷水だろうが甘茶だろうが、他人から恵みを受けて黙っているのは、相手を一人前の人間と見立てて、その厚意を受け止めるという作法だ。
割り勘を出せばそれで済むところを、心の中で「ありがたい」と恩に着るのは、金銭で買えるような返礼じゃない。
無位無冠でも、一人前の独立した人間だ。
独立した人間が頭を下げるのは、百万両よりも尊いお礼だと思わなければならない。
おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊い返礼をした気でいる。
山嵐はありがたいと思わなきゃいけない。
それなのに裏に回って卑劣な振る舞いをするとは、けしからん野郎だ。
明日行って一銭五厘返してしまえば、貸し借りなしだ。
そうしておいて、ケンカをしてやる。
おれはここまで考えると眠くなったので、ぐうぐう寝てしまった。
翌日は思うところがあって、いつもより早めに学校へ行って山嵐を待ち受けた。
ところがなかなか出てこない。
うらなりが出てくる。
漢学の先生が出てくる。
野だが出てくる。
しまいには赤シャツまで出てきたが、山嵐の机の上は白墨が一本、横たわっているだけで閑静なものだ。
おれは控室に入るやいなや返そうと思って、家を出る時から湯銭のように手のひらに握りしめて、一銭五厘を学校まで持ってきた。
おれは手汗をかきやすいから、開いてみると一銭五厘が汗をかいている。
汗をかいている銭を返したら、山嵐が何か言うかもしれないと思ったから、机の上に置いてふうふう吹いてから、また握り直した。
そこへ赤シャツが来て「昨日は失敬、迷惑だったでしょう」と言ったから、「迷惑じゃありません、おかげで腹が減りました」と答えた。
すると赤シャツは山嵐の机の上にひじをついて、あの能面のような顔をおれの鼻のすぐそばまで持ってきた。何をするのかと思ったら、「君、昨日帰りがけに船の中で話したことは、秘密にしてくれたまえ。まだ誰にも話してないよね?」と言った。
女みたいな声を出すだけに、心配性な男と見える。
話さないことは確かだ。

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