ぜいぜいと荒い息をしながら峠を登り、登りきってホッとした時、突然、目の前に山賊の一団が躍り出た。
「待て!」
「何をするんだ。私は日が沈まないうちに王城へ行かなければならないんだ。放せ!」
「どっこい、そうはいかない。持っているものを全部置いていけ。」
「私には、命のほかには何もない。そのたった一つの命だって、これから王にくれてやる予定なんだ。」
「その命が欲しいんだよ。」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたんだな。」
山賊たちは、何も言わずに一斉に棍棒を振り上げた。
メロスはサッと体を折り曲げると、鳥のように速い動きで一番近くの男に飛びかかり、その棍棒を奪い取った。
「気の毒だが、正義のためだ!」
そう叫んで猛烈に一撃を加えると、たちまち三人を殴り倒した。残りの山賊がひるんでいる隙に、メロスはサッサと走って峠を下っていった。峠を一気に駆け下りましたが、さすがに疲れが溜まっていました。折しも午後の焼けつくような太陽が容赦なく照りつけ、メロスは何度もめまいを感じました。「これではいけない」と自分を励ましては、よろよろと二、三歩歩いて、ついにガクリと膝をついてしまいました。
もう、立ち上がることができません。
空を仰いで、悔し泣きに泣き出しました。
ああ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も叩きのめして、韋駄天のごとくここまで突破してきたメロスよ。
真の勇者、メロスよ。
今ここで、疲れ果てて動けなくなるとは、なんという情けなさ。
愛する友は、お前を信じたばかりに、やがて殺されなければならないのだ。
「お前は、この世で一番の不信の人間だ。まさに王の思う壺だぞ」と自分を叱ってみるのですが、全身の力が抜けてしまい、もはや芋虫ほども前進することができません。
路傍の草原にごろりと寝転がりました。
体が疲れると、心まで一緒に弱ってしまうものです。
「もう、どうでもいいや」という、勇者には似合わない、投げやりな気持ちが心の隅に巣食いました。
私は、これほど努力した。
約束を破る心など、これっぽっちもなかった。
神様も見ていてください、私は精一杯努めてきたのだ。
動けなくなるまで走ってきたのだ。
私は信義を裏切るような人間ではない。
ああ、できることなら胸を切り裂いて、真っ赤な心臓をお見せしたい。
愛と誠実な血液だけで動いている、この心臓を見せてやりたい。
けれども私は、この大事な時に、気力も体力も尽きてしまった。
私は、本当に不幸な男だ。
私は、きっと笑いものになるだろう。
私の一家まで笑われる。
私は友を裏切ったことになる。
途中で倒れるのは、最初から何もしないのと同じことだ。
ああ、もう、どうでもいい。
これが、私の決まった運命なのかもしれない。
セリヌンティウスよ、許してくれ。
君は、いつも私を信じてくれた。
私も君を、決して裏切らなかった。
私たちは、本当に良い友同士だったんだ。
一度だって、暗い疑いの雲を、お互いの胸に抱いたことはなかった。
今だって、君は私を無心に待っているだろう。
ああ、待っていてくれているだろう。
ありがとう、セリヌンティウス。
よくも私を信じてくれた。
それを思うと、たまらない。
友と友の間の信頼こそ、この世で一番誇るべき宝なのだからな。
セリヌンティウス、私は走ったのだ。
君を欺くつもりは、少しもなかった。
信じてくれ! 私は急いで、急いでここまで来たのだ。
濁流を突破した。
山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駆け下りてきたのだ。
私だからこそ、できたのだよ。
ああ、これ以上、私に望まないでくれ。
放っておいてくれ。
もう、どうでもいいのだ。
私は負けた。
だらしない。
笑ってくれ。
王は私に「少し遅れて来い」と耳打ちした。
遅れたら、身代わりを殺して、私を助けてくれると約束した。
私は王の卑劣を憎んだ。
けれども、今となっては、私は王の言葉通りになっている。
私は、遅れて行くだろう。
王は、勝手に納得して私を笑い、そして何事もなかったかのように私を放免するだろう。
そうなったら、私は、死ぬよりつらい。
私は永遠に裏切り者だ。
地上で最も、不名誉な人間だ。
セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。
君と一緒に死なせてくれ。
君だけは私を信じてくれるに違いない。
いや、それも私のひとりよがりだろうか? ああ、もういっそ、最低な人間として生き延びてやろうか。
村には私の家がある。
羊もいる。
妹夫婦は、まさか私を村から追い出すようなことはしないだろう。
正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらないことだ。
人を殺して自分が生きる。
それが人間世界のルールではないか。
ああ、何もかも、ばかばかしい。
私は、醜い裏切り者だ。
どうとでも勝手にするがいい。
ああ、もう終わりだ。
――手足を投げ出して、うとうとと、まどろんでしまいました。
ふと耳に、サラサラと水の流れる音が聞こえてきました。
そっと頭をもたげ、息を呑んで耳を澄ませました。
すぐ足元で、水が流れているようです。
よろよろと起き上がって見ると、岩の裂け目からコンコンと、何か小さくささやきながら清水が湧き出ているではありませんか。
その泉に吸い込まれるように、メロスは身をかがめました。
水を両手ですくって、一口飲みました。
「ふうっ」と長い溜息が出て、夢から覚めたような気がしました。
歩ける。
行こう。
肉体の疲労が回復するとともに、わずかながら希望が生まれました。
義務を果たすための希望です。
わが身を犠牲にして、名誉を守る希望です。
傾いた太陽が赤い光を木々の葉に投げかけ、葉も枝も燃えるばかりに輝いています。
日没までには、まだ時間がある。
私を待っている人がいるのだ。
少しも疑わず、静かに期待してくれている人がいるのだ。
私は、信じられている。
私の命など、問題ではない。
死んでお詫びを、などと気楽なことは言っていられない。
私は、信頼に報いなければならない。
今はただ、そのことだけだ。
走れ! メロス。
私は信頼されている。
私は信頼されている。
さっきの、あの悪魔のささやきは、あれは夢だ。
悪い夢だ。そんなことは忘れてしまえ。体が疲れ切っているときには、ふとそんな悪い夢を見てしまうものだ。メロス、それはおまえの恥なんかじゃない。おまえはやっぱり、本物の勇者だ。こうしてまた立ち上がって、走れるようになったじゃないか。
ありがたい! 私は今度こそ、正義の味方として死ぬことができるぞ。
ああ、陽が沈んでいく。どんどん沈んでいく。待ってくれ、ゼウスよ。私は生まれたときから正直な人間だった。このまま正直な男として、死なせておくれ。
道行く人を押し分け、跳ね飛ばしながら、メロスは黒い風のように駆け抜けた。野原で開かれていた宴会の真っただ中を突き抜け、お酒を飲んでいた人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越えて、少しずつ沈んでいく太陽よりも十倍の速さで走った。
一団の旅人たちとすれ違った瞬間、不吉な会話が耳に入ってきた。
「今ごろは、あの男も磔(はりつけ)にされているだろうよ」
ああ、その男、その友のために、私は今こんなに走っているんだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。


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