初級翻訳・坊つちやん 第11話

坊つちやん

明後日勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて、勝つまでここに居座ってやる。
俺はそう決心したので、廊下の真ん中にあぐらをかいて、夜が明けるのを待つことにした。
蚊がぶんぶん飛んできたが、そんなものはどうでもいい。
さっきぶつけた脛(すね)を撫でてみると、何だかぬらぬらする。血が出ているんだろう。
血なんか出たければ勝手に出ろ。
そうこうしているうちに、先ほどからの疲れが出て、うとうとと眠ってしまった。
何だか騒がしいので目が覚めると、しまったと飛び起きた。
俺が座っていた右側の戸が半分開いて、生徒が二人、俺の前に立っている。
正気に返って、はっと思うと同時に、俺の鼻の先にいた生徒の足を引っ掴んで、力任せにぐいと引いたら、そいつはどたりと仰向けに倒れた。
ざまあみろ。
残る一人が少し慌てている隙に飛びかかり、肩を押さえて二三度小突いてやると、あっけに取られて目をぱちぱちさせている。
「さあ、俺の部屋まで来い!」と引き立てていくと、弱虫のようで、文句も言わずに俺の後ろをついてきた。
夜はとうに明けていた。
俺が宿直部屋へ連れてきた奴を問い詰め始めたが、豚は叩こうが蹴ろうが豚でしかない。ただ「知りません」でどこまでも通す気らしく、決して白状しない。
そのうちに一人、また一人と、二階から宿直部屋へ集まってきた。
見るとみんな眠そうにまぶたを腫らしている。
情けない奴らだ。一晩くらい寝ないで、そんな面をして男と言えるのか。
「顔でも洗って議論に来い!」と言ってやったが、誰も洗面所へは行かない。
俺が五十人あまりを相手に一時間ほど押し問答をしていると、ひょっこりと狸(校長)がやってきた。
後から聞くと、小使いが学校で騒動があると言って、わざわざ知らせに行ったらしい。
これしきの事に校長を呼ぶなんて、あまりに意気地がなさすぎる。だから中学校の小使いなんかやっているんだ。
校長はひと通り俺の説明を聞き、生徒たちの言い分も少し聞いた。
「追って処分するまでは、今まで通り学校へ出なさい。早く顔を洗って朝飯を食わないと時間に間に合わないから、急ぎなさい」と言って、寄宿生たちをみんな放免した。
手温いことだ。俺ならその場ですぐに、寄宿生を全員退校処分にする。
こんな悠長なことをするから、生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。
その上、校長は俺に向かって「あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日は授業に出なくていいですよ」と言ってきたので、俺はこう答えた。
「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんなことが毎晩あっても、命のある間は心配なんてしませんよ。授業はやります。一晩くらい寝なくたって授業ができないようなら、いただいた月給を学校へ返します」
校長は何を思ったのか、しばらく俺の顔を見つめていたが、「しかし、顔がだいぶ腫れていますよ」と注意してきた。
なるほど、何だか顔が少々重たい気がする。その上、顔じゅうが痒(かゆ)い。
蚊にたっぷり刺されたに違いない。
俺は顔中をぼりぼり掻きながら、「顔はいくら膨らんだって、口は確かに動かせますから、授業には差し支えません」と答えた。
校長は笑いながら「だいぶ元気ですね」と褒めた。
実を言うと、褒めたんじゃあるまい、からかったんだろう。

君、釣りに行きませんか、と赤シャツが俺に聞いた。
赤シャツは、気味が悪いほどに優しい声を出す男だ。
まるで男だか女だか分かりゃしない。男なら男らしい声を出すものだ。
ことに大学を卒業した人間ならなおさらだ。
物理学校の連中でさえ、おれくらいの声は出せるというのに、文学士がこれでは見っともない。
おれは「そうですなあ」と少し乗り気でない返事をしたら、君は釣りをしたことがあるかと、失敬なことを聞いてきた。
あんまりないが、子供の時、小梅の釣り堀でフナを三匹釣ったことがある。
それから神楽坂の毘沙門様の縁日で、八寸ばかりのコイを針で引っかけて、「やった!」と思ったら、ぽちゃりと落としてしまった。あれは今考えても惜しい、と言うと、赤シャツは顎を前の方へ突き出して「ホホホホ」と笑った。
何もそんなに気取って笑わなくたって、いいじゃないか。
「それじゃ、まだ釣りの本当の面白さは分かっていないんですな。お望みなら、少し伝授してあげましょう」
と、すこぶる得意げだ。
誰がそんなもの、ご伝授を受けるものか。
一体、釣りや猟をする連中は、みんな不人情な人間ばかりだ。
不人情でなくて、生き物を殺すことを楽しめるわけがない。
魚だって鳥だって、殺されるより生きている方が楽に決まっている。
釣りや猟をしなくちゃ生活が成り立たないのなら格別だが、何不自由なく暮らしている上に、生き物を殺さなくちゃ気が済まないなんて贅沢な話だ。
こう思ったが、相手は文学士だけに口が達者だから、議論じゃ敵わないと思って黙っていた。
すると先生は、このおれを降参させたと勘違いして、「早速、伝授しましょう。お暇なら、今日どうです、一緒に行きませんか。吉川君と二人きりじゃ寂しいから、来たまえ」としきりに勧めてくる。
吉川君というのは画学の教師で、例の「野だいこ」のことだ。
この野だは、どういう了見だか、赤シャツの家へ朝夕出入りして、どこへでもついていく。
まるで同僚じゃない。主従みたいだ。
赤シャツの行く所なら、野だは必ずついてくるものと決まっているから、今さら驚きもしないが、二人で行けば済むところを、なんで無愛想なおれに声をかけたんだろう。
おそらく、高慢ちきな釣り道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりか何かで誘ったに違いない。
そんなことで見せびらかされるようなおれじゃない。
マグロの二匹や三匹釣ったって、少しも動じないぞ。
おれだって人間だ。いくら下手だって、糸さえ垂らせば何かかかるだろう。ここで自分から断ると、赤シャツのことだから、「下手だから行かないんだ、嫌いだから行かないんじゃないんだ」と邪推するに違いない。
おれはこう考えたから、「行きましょう」と答えた。
それから学校が終わって、一度うちへ帰って支度を整え、停車場で赤シャツと野だを待ち合わせて浜へ行った。
船頭は一人で、船は細長くて、東京あたりでは見たこともない形をしている。
さっきから船の中を見渡しているが、釣り竿が一本も見当たらない。
釣り竿なしで釣りができるものか、どうするつもりだと野だに聞くと、「沖釣りには竿は使いません、糸だけでげす」と顎を撫でながら、黒人みたいなことを言った。
こうやってやり込められるくらいなら、黙っていればよかった。
船頭はゆっくりと漕いでいるが、熟練の技というのは恐ろしいもので、振り返ると、浜が小さく見えるくらいもう沖へ出ている。
高柏寺の五重の塔が森の上へ突き出して、針のように尖がっている。
向かい側を見ると青島が浮いている。
これは人が住んでいない島だそうだ。
よく見ると石と松ばかりだ。なるほど、石と松ばかりじゃ住めるはずがない。
赤シャツはしきりに眺望して、「いい景色だ」と言っている。
野だは「絶景でげす」と言っている。
絶景だか何だか知らないが、いい心持ちなのは確かだ。
広々とした海の上で、潮風に吹かれるのは体にいいと思った。ひどく腹が減る。

コメント

タイトルとURLをコピーしました