初級翻訳・坊つちやん 第13話

坊つちやん

清はシワだらけの婆さんだが、どんなところへ連れて行っても恥ずかしいなんて気持ちは少しもしない。
野だのような奴は、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣に登ろうが、到底一緒に歩けたものじゃない。
もしおれが教頭で、赤シャツがおれだったら、きっとおれにペコペコとお世辞を使って赤シャツをバカにするに違いない。
江戸っ子は軽薄だと言われるが、なるほど、こんな奴が田舎を巡り歩いて「私は江戸っ子でげす」なんて繰り返していたら、田舎者が「軽薄=江戸っ子」だと勘違いするのも無理はない。
そんなことを考えていると、なんだか二人がクスクスと笑い出した。
笑い声の合間に何か言っているが、途切れ途切れでさっぱり要領を得ない。
「え? どうだか……」「……全くです……知らないんですから……罪ですね」「まさか……」「バッタを……本当ですよ」
おれは他の言葉には耳を傾けなかったが、「バッタ」という野だの言葉を聞いた瞬間、思わずカッとなった。
野だは何か意図があって「バッタ」という言葉だけわざと力を込め、明瞭におれの耳に入るようにしてから、その続きをわざとぼかしたのだ。
おれは動かずに、そのまま聞き耳を立てていた。
「また例の堀田が……」「そうかも知れない……」「天ぷら……ハハハハハ」「……煽動して……」「団子も?」
言葉はこんなふうに途切れ途切れだが、「バッタ」だの「天ぷら」だの「団子」だのという単語から推測するに、どう考えてもおれのことについて内緒話をしているに違いない。
話すならもっと大きな声で言えばいいし、内緒話をするつもりなら、最初からおれなんか誘わなければいいんだ。
いけ好かない連中だ。
バッタだろうが草履だろうが、落ち度はおれにはない。
校長が「ひとまず預かっておけ」と言ったから、狸の顔を立てて今のところは控えているだけだ。
野だのくせに余計な批評をしやがって。
毛筆でもしゃぶって引っ込んでいればいいものを。
おれのことは、遅かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから心配はいらないのだが、「また例の堀田が」とか「煽動して」とかいう言葉がどうにも気にかかる。
堀田がおれを煽動して騒動を大きくしたという意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたのか、どういう文脈なのか見当がつかない。
青空を見ていると、日の光がだんだん弱まってきて、少し肌寒い風が吹き出した。
線香の煙のような雲が、透き通る空の底を静かに伸びていったかと思うと、いつの間にか底の奥へ流れ込んで、薄くもやをかけたようになった。
「もう帰ろうか」と赤シャツが思い出したように言うと、「ええ、ちょうどいい時間ですね。今夜はマドンナの君にお会いですか?」と野だが言った。
赤シャツは「馬鹿なことを言うんじゃない、誤解される」と言いながら、船縁に身を預けていた体を少し起こした。
「エヘヘヘヘ、大丈夫ですよ。聞いたって……」と野だが振り返った時、おれは皿のように見開いた目を野だの頭の上に真っ向から浴びせかけてやった。
野だは眩しそうにのけぞり、「や、こいつは降参だ」と首を縮めて頭を掻いた。
なんて小賢しい奴だろう。
船は静かな海を岸へ向かって漕ぎ戻る。
「君は釣りがそんなに好きじゃないようですね」と赤シャツが聞いてきたので、「ええ、寝転がって空を見る方がいいです」と答え、吸いかけの巻きタバコを海の中へ投げ込んだ。タバコはジュッと音を立て、櫓(ろ)でかき分けられた波の上を揺られながら漂っていった。
「君が来たおかげで生徒も大いに喜んでいるから、これからも奮発してやってくれたまえ」と、今度は釣りとは全く関係のないことを言い出した。
「そんなに喜んでもいないでしょう」「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんですよ、ねえ吉川君」「喜んでいるどころの話じゃありません。大騒ぎですよ」と野だはニヤニヤと笑った。
こいつの言うことはいちいち癪に障るから困る。
「しかし君、注意しないと危険ですよ」と赤シャツが言うので、「どうせ危険です。こうなったら危険なんて覚悟の上です」と言い返してやった。
実際、おれは免職になるか、寄宿生を全員謝らせるか、どちらか一つにするつもりでいた。
「そう言われてしまうと取り付く島もないが……実は僕も教頭として君のためを思って言っているんだ。悪く取らないでほしい」「教頭は本当に君に好意を持っているんですよ」「僕も力不足ではありますが、同じ江戸っ子同士ですからね。あなたがなるべく長くこの学校にいられるよう、お互いに助け合っていこうと思って、こうして陰ながら尽力しているんですよ」と、野だがいかにも人間らしいことを言った。
野だになんか世話になるくらいなら、首を吊って死んだほうがマシだ。

「それでですね、生徒たちは君が来たことを非常に歓迎しているんですが、そこにはいろいろと複雑な事情がありましてね。君も腹の立つことがあるだろうけれど、今は我慢の時だと思って、辛抱してくれたまえ。決して君の不利益になるようなことはしないから」
「その『いろいろな事情』とは、一体どんなことですか」
「それが少し込み入った話でしてね。まあ、だんだん分かってきますよ。僕が説明しなくても自然と理解できるはずです、ねえ吉川君」
「ええ、本当に込み入っていますから。一朝一夕では到底分かりませんよ。しかし、だんだんと分かってきます。僕が言わなくても自然と分かってくるものです」と、野だは赤シャツと同じようなことを言った。
「そんな面倒な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺っているんです」
「そりゃあ、ごもっともだ。こちらから口を切っておいて、最後まで説明しないのは無責任というものですね。それじゃあ、これだけは言っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したばかりで、教師としての経験が初めてです。ところが、学校という場所は非常に情実が絡み合うところでして、そう書生気分でさっぱりとはいかないものなのですよ」
「さっぱりいかないなら、どんなふうにいくんですか」
「いやあ、君はそうやって率直だから、まだ経験が乏しいと言われるんですよ……」
「どうせ経験に乏しいのは当たり前です。履歴書にも書きましたが、まだ二十三歳と四ヶ月ですから」
「さあ、そこで思わぬところから足元をすくわれることがあるんです」
「正直にしていれば、誰に足元をすくわれようと怖くはありません」
「もちろん怖くはない。怖くはないが、すくわれる。現に君の前任者がやられたのだから、気をつけないといけないと言っているんです」

野だが大人しくなったなと思って振り返ってみると、いつの間にか船の後ろの方で船頭と釣りの話をしている。野だがいないおかげで、ずっと話しやすくなった。
「僕の前任者は、誰に足元をすくわれたんですか」
「誰と指名すると、その人の名誉に関わるから言えません。それに、はっきりとした証拠のないことですから、口に出せばこちらの落ち度になります。とにかく、せっかく君が来たのだから、ここで失敗してしまっては僕らも君を呼んだ甲斐がない。どうか気をつけてくれたまえ」
「気をつけてくれと言われても、これ以上気をつけることはありません。

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