初級翻訳・坊つちやん 第15話

坊つちやん

しかし、これから話そうという気持ちで、すでに一銭五厘を手のひらに用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口止めをされちゃ、ちょっと困る。
赤シャツも赤シャツだ。
山嵐と名前を指さないにしろ、あれほど推察できる謎をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だなんて、教頭とも思えぬ無責任さだ。
本来なら、おれが山嵐と戦争を始めてしのぎを削っている真っ最中に出てきて、堂々とおれの肩を持つべきだろう。それこそが学校の教頭というものだし、赤シャツを着ているという自分の立場を貫く主旨も立つというものだ。
俺は教頭に向かって、「まだ誰にも話してはいないが、これから山嵐と話し合いをするつもりだ」と伝えた。すると赤シャツはひどくうろたえて、「君、そんな無茶なことをされては困る。私は堀田君の件について、特別君に何かを断言した覚えはないんだ。……君がもしここで乱暴を働いたりすれば、私は非常に迷惑するんだ」と言った。
君は学校で騒動を起こすつもりでここへ来たわけではないだろう、などと妙に常識外れな質問をしてくるから、「当たり前でしょう。給料をもらいながら騒動を起こしたりしたら、学校側だって困るはずです」と返した。
すると赤シャツは、「それなら昨日の話は、君の参考程度にとどめて、決して他言しないでくれ」と、汗をかきながら必死に頼んでくる。俺は「わかりました。俺だって揉めるのはごめんですが、あなたがそこまで迷惑だというならやめておきましょう」と約束した。
「君、本当に大丈夫だね?」と赤シャツは念を押してくる。
どこまで女々しい神経をしているのか、底が見えない。
文学士なんてものがみんなあんな連中ばかりなら、大した価値もないものだ。
話のつじつまも合わない、論理のかけらもない注文をつけておきながら、平然としている。
その上、この俺を信用していない様子だ。
あえて言うが、俺だって男だ。
一度約束したことを、裏に回って反故(ほご)にするような卑しい根性なんて持ち合わせていない。
ちょうどその時、隣の机の主たちも出勤してきたので、赤シャツは早々に自分の席へと戻っていった。
赤シャツは歩き方からして気取っている。
部屋の中を歩くときでさえ、音を立てないように靴の底をそっと下ろす。
音を立てずに歩くことが自慢になるなんて、この時初めて知った。
泥棒の稽古じゃあるまいし、普通に歩けばいいものを。
やがて始業のラッパが鳴った。
山嵐は結局出てこない。
仕方がないので、一銭五厘を机の上に置いたまま、俺は教室へと向かった。
授業の都合で一時間目は少し遅れた。控室に戻ってみると、他の教師たちはみんな机を囲んで話をしている。
山嵐もいつの間にか来ていた。
欠勤かと思ったら、遅刻だったらしい。
奴は俺の顔を見るなり、「今日は君のおかげで遅刻したんだ。罰金を払ってもらうぞ」と言った。
俺は机の上に置いておいた一銭五厘を取り出し、「これをやるから取っておけ。この前、通町で飲ませてもらった氷水の代金だ」と山嵐の前に置いた。
「何を言ってるんだ」と笑いかけてきたが、俺が思いのほか真面目な顔をしているので、「つまらない冗談はよせ」と銭を俺の机の上に掃き返してきた。
おや、山嵐のくせに、どこまでも奢る気でいるつもりか。
「冗談じゃない、本当だ。俺は君に氷水を奢ってもらうような因縁はないから、払うんだ。取らない法があるか」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ今さら思い出したように返すんだ?」
「今だろうがいつだろうが、返すんだ。奢られたままなのが嫌だから返すんだよ」
山嵐は冷めた目で俺の顔を見て、「ふん」と言った。
赤シャツの頼みがなければ、ここで山嵐の卑劣なやり口を暴いて大喧嘩をしてやるところだが、口外しないと約束してしまった以上、動きがとれない。
人がこれだけ真剣になっているのに、「ふん」とはなんだ。
「氷水の代金は受け取ってやるから、その代わり下宿を出てくれ」
「一銭五厘を受け取ればそれでいい。下宿を出るか出ないかは俺の勝手だ」
「ところが勝手じゃない。昨日、あそこの亭主が来て『君に出ていってほしい』と言うから、その理由を聞いたら亭主の言うことももっともだと思ったんだ。それでも一応確かめるつもりで、今朝あそこへ寄って詳しい話を聞いてきたんだ」
俺には山嵐の言っていることが、さっぱり理解できない。
「亭主が君に何を話したかなんて、俺が知るもんか。そうやって自分だけで決めつけてどうするんだ。理由があるなら、その理由を話すのが筋だろう。最初から亭主の言うことがもっともだなんて、失礼千万なことを言うな!」
「うん、それなら言ってやろう。君は乱暴で、あの下宿でも持て余されているんだ。いくら下宿の女房だって、下女とは違うんだぞ。足を出して拭かせたりするなんて、威張りすぎだ」
「俺がいつ、下宿の女房に足を拭かせたって言うんだ!」
「拭かせたかどうかは知らないが、とにかく向こうじゃ君に困り果てているんだ。下宿料の十円や十五円は、掛け軸を一枚売ればすぐに浮く、とも言っていたぜ」
「知ったような口をきく野郎だ。それなら、なぜ俺を置いたんだ」
「なぜ置いたかなんて、僕は知らん。置くことは置いたが、嫌になったんだから出ていけと言っているんだろう。君、出ていってやれ」
「当たり前だ! 居てくれと手を合わせられたって居るものか。一体、そんな言いがかりをつけてくるようなところへ世話をした君のやり方からして、不届き千万だ」
「俺が不届きなのか、君が大人しくないのか、どっちかだろうな」
山嵐も俺に負けず劣らずの癇癪持ちだから、負けじと大きな声を張り上げる。
控室にいた連中は、何事かと驚いて、みんな俺と山嵐の方を見ては、首を長くしてぼんやりと眺めている。
俺は別に恥ずかしいことをした覚えなどないので、立ち上がりながら部屋の中を一通り見回してやった。
みんなが驚いている中で、野だだけは面白そうに笑っていた。俺の大きな目が、「貴様も喧嘩を売るつもりか」という勢いで野だのひょうたんのような顔を射抜くと、野だは急に真面目な顔つきになって、大人しくなった。
どうやら少し怖かったらしい。
そうこうしているうちに始業のラッパが鳴った。
山嵐も俺も喧嘩を中断して教室へ向かった。
午後は、この前俺に対して失礼な態度をとった寄宿生たちをどう処分するかについての会議だ。
会議なんてものは生まれて初めてだから、さっぱり勝手がわからないが、職員が集まって、みんなが思い思いの意見を出し合い、それを校長が適当にまとめるのだろう。
「まとめる」なんて言葉は、白黒がはっきりしない事柄について使うものだ。
今回のような、誰が見たって悪いとしか思えない事件について会議を開くなんて、時間の無駄でしかない。
誰がどう考えたって、異論が出るはずがないじゃないか。
こんなに明白なことなら、校長が即座に処分を決めてしまえばいい。
本当に決断力のない人だ。
校長なんてものがこの程度なら、なんのことはない、「煮え切らない愚図」の別名にすぎない。
会議室は校長室の隣にある細長い部屋で、普段は食堂の代わりをしている。

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