男と女は、また元の通りに歩き出しました。
おれには考えがあったので、急に全速力で追いかけました。
先方は何の気配も感じていないのか、最初の通りゆっくりと歩いています。
今では話し声まではっきりと聞こえます。
土手の幅は六尺(約1.8メートル)ほどしかないので、並んで歩けば三人が限界です。
おれは苦もなく後ろから追いつき、男の袖をすり抜ける瞬間に、二歩前へ踏み出して、くるりと振り返って男の顔を覗き込みました。
月が正面から、おれの五分刈りの頭からあごのあたりまで、遠慮なく照らします。
男は「あっと」小声で言うと、急に横を向いて、女に「もう帰ろう」と促すやいなや、温泉街の方へ引き返していきました。
赤シャツは図太くてとぼけるつもりなのか、それとも気が弱くて名乗るタイミングを逃したのか……。
ところが、狭い道で困っていたのは、おればかりではありませんでした。
八
赤シャツに勧められて釣りに行った帰りから、山嵐を疑い出しました。
身に覚えのないことで「下宿を出て行け」と言われたときは、いよいよ不埒(ふらち)な奴だと思いました。
ところが会議の席では、予想に反して滔々(とうとう)と生徒への厳罰論を述べたので、「おや、変だな」と首をかしげました。
萩野の婆さんから、山嵐が「うらなり君」のために赤シャツと談判(けんか)をしたと聞いたときは、「それは感心だ!」と手を叩きました。
この様子では、悪者は山嵐ではないはずです。赤シャツの方が性格が曲がっていて、いい加減な邪推をさも真実のように、しかも遠回しに、おれの頭の中へ染み込ませていたのではないかと迷っていた矢先、野芹川の土手で、マドンナを連れて散歩している姿を見たので、それ以来「赤シャツこそが曲者だ」と決めつけてしまいました。
曲者なのか何なのかはよくわかりませんが、とにかく良い男ではありません。
表と裏が違う男です。
人間は竹のように真っ直ぐでなくっちゃ、信頼できません。
真っ直ぐな人間なら、喧嘩をしても心持ちがいいものです。
赤シャツのように、優しくて、親切で、高尚ぶって、琥珀のパイプを自慢そうに見せびらかすような奴は油断ができません。めったに喧嘩もできない相手だと思いました。
喧嘩をしたとしても、相撲のように堂々とした、清々しい喧嘩はできないだろうと思ったのです。
そうなると、たった一銭五厘の騒動で学校中を驚かせた議論の相手、山嵐の方が、よっぽど人間らしい気がします。
会議の時に金壺眼(かなつぼまなこ)をぎょろつかせておれを睨んだときは「憎い奴だ」と思いましたが、後から考えると、あれも赤シャツのねちねちした猫なで声よりはずっとマシです。実はあの会議が終わったあと、本当は仲直りしたくて一言二言話しかけてみたんだ。でも、あいつは返事もしないで、まだ睨みつけてきたから、こっちも腹が立ってそのままにしてやった。
それ以来、山嵐とは一言も口をきいていない。机の上に返した一銭五厘の硬貨は、今もそこに置かれたままだ。ほこりだらけになって乗っている。おれはもちろん手を出せないし、山嵐も決して持って帰ろうとしない。この一銭五厘が二人の間の壁になってしまって、おれは話そうと思っても話せず、山嵐は意地を張って黙り込んでいる。おれと山嵐には、この一銭五厘が災いしているんだ。しまいには、学校に行ってあの一銭五厘を見るのが嫌でたまらなくなってきた。
山嵐とは絶交状態になった一方で、赤シャツとは相変わらずの関係を保って付き合いが続いている。野芹川で会った翌日なんて、学校に行くと真っ先に俺のそばへやってきて、「君、今度の下宿はいいのかい?」とか「また一緒に露西亜文学を釣りに行こうじゃないか」といろいろ話しかけてくる。
おれは少し腹が立っていたから、「昨夜は二回会いましたね」と言ってやった。すると赤シャツは、「ええ、停車場で……君はいつもあの時間に出かけるのかい? 遅いじゃないか」なんて言ってくる。さらに「野芹川の土手でもお目にかかりましたね」と追い打ちをかけると、「いいえ、僕はあちらへは行きませんよ。お湯に入って、すぐ帰りましたから」と答えた。
何もそんなに隠さなくてもいいだろうに、現に会っているんだから。本当によく嘘をつく男だ。こんなので中学の教頭が務まるなら、おれなんか大学の総長だって務まるよ。おれはこの時から、いよいよ赤シャツを信用しなくなった。信用できない赤シャツとは口をきき、感心しているはずの山嵐とは話をしない。世の中ってやつは、本当に妙なものだ。
ある日のこと、赤シャツが「ちょっと君に話があるから、僕の家まで来てくれ」と言うので、温泉に行くのが惜しい気もしたが、四時ごろに出かけて行った。赤シャツは独り身だけど、教頭だけあって下宿はとっくに引き払って、立派な玄関を構えている。家賃は九円五十銭だそうだ。田舎に来て九円五十銭払えばこんな家に住めるなら、おれも一つ奮発して、東京から清(きよ)を呼び寄せて喜ばせてやろうかと思ったくらいの玄関だった。
頼むと、赤シャツの弟が出てきた。この弟は学校で、おれが代数と算術を教えている生徒で、すこぶる出来が悪い。そのくせ都会から来た気取り屋だから、生まれつきの田舎者よりも性格が悪い。
赤シャツに会って用事を聞いてみると、あの例の琥珀のパイプで、きな臭い煙草をふかしながらこんなことを言った。
「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績がよくなって、校長も『大いにいい人を得た』と喜んでいるんだ。学校としても君を信頼しているから、そのつもりでこれからも励んでもらいたい」
「へえ、そうですか。勉強って、今以上に勉強しろと言われても……」
「今のくらいで十分だよ。ただ、先だって話したことだ。あれを忘れずにいてくれればいいんだ」
「下宿の世話なんかするもんじゃない、という話ですか」
「そう露骨に言うと、意味のないことになってしまうが……まあいいさ。精神は君にもよく通じていると思うから。そこで君が今のように頑張ってくれれば、学校の方もちゃんと見ているからね。もう少しして都合さえつけば、待遇についても多少はどうにかなるだろうと思っているんだよ」
「へえ、給料のことですか。給料なんてどうでもいいんですが、上がれば上がったほうがいいですね」
「それで幸い、今度転任者が一人出るんだ。もっとも校長に相談してみないと約束はできないが、その給料から少しは回せるかもしれないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんだ」
「どうもありがとうございます。誰が転任するんですか?」
「もう発表になるから話しても差し支えないだろう。実は古賀君だよ」
「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
「ここの出身だが、少し都合があってね。半分は本人の希望でもあるんだ」
「どこへ行くんです?」
「日向(ひゅうが)の延岡(のべおか)だ。土地が土地だから、給料が一級上がって行くことになったんだよ」
「誰か代わりが来るんですか?」
「代わりも大体決まっている。その代わりの具合で、君の待遇上の都合もつくんだ」
「はあ、結構です。しかし、無理に上げてもらわなくても構いませんよ」
「ともかく僕は校長に話すつもりだ。
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