初級翻訳・罪と罰 第172話

ドストエフスキー

実際、そんな予感などこれっぽっちも抱いていなかったはずなのに。それなのに、彼が口を開いたとたん、彼女はまるで最初からずっとそれを予感していたかのような不思議な感覚に包まれたのです。

「もういいよ、ソーニャ、たくさんだ! 僕をこれ以上苦しめないでくれ!」と、彼は悩ましげに頼みました。
こんなふうに打ち明けるつもりなんて、夢にも思っていなかったのです。
それなのに、こんなことになってしまった。
彼女はわれを忘れたように飛び上がり、両手をもみしだきながら部屋の真ん中まで走りましたが、すぐにくるりと向きを変えて彼の元へ戻り、肩が触れ合うほど近くに並んで座りました。
ふいに、彼女は何かで刺されたようにビクッと震え、一声叫び声を上げると、自分でも理由がわからないまま、いきなり彼の前に膝をつきました。

「どうして、どうしてご自分に対してそんなひどいことをなさったんですか!」と、彼女は絶望のあまり叫びました。
それから急に飛び上がると、彼の首に飛びつき、両手で強く、強く抱きしめました。
ラスコーリニコフは思わず一歩よろめき、わびしげな笑みを浮かべながら彼女を見つめました。
「お前は本当に妙な女だな、ソーニャ。僕がこんなことを告白したのに、抱きしめてキスしてくれるなんて。お前、自分が何をしているのか分かっているのかい」

「いいえ、今この世界中で、あなたより不幸な人なんて一人もいませんわ!」
彼女は彼の言葉など耳にも入らない様子で、興奮のあまり叫びました。
そして、まるでヒステリーでも起こしたかのように、しゃくり上げて泣き出しました。
ずっと長い間、忘れていたような感情が、波のように彼の胸へ押し寄せ、みるみるうちに彼の心を柔らかく溶かしていきました。
彼はもう、その感情に逆らおうとはしませんでした。
二粒の涙が彼の目からこぼれ落ち、長いまつ毛にひっかかりました。「じゃあ、お前は僕を見捨てないんだね、ソーニャ?」
彼はほとんど希望を抱くような気持ちで、女の顔をじっと見つめてそう尋ねました。
「ええ、ええ。いつまでも、どこまでも!」とソーニャは言いました。
「わたしはあなたについて行くわ、どこへでもついて行く! ああ、神さま……! わたしはなんて不幸な女なんでしょう! どうして、どうしてわたしはもっと早く、あなたを知ることができなかったのかしら! どうしてあなたはもっと早く来てくださらなかったの? ああ、なんてことなの!」
「だからこうして、やってきたんだ」
「今! ああ、今さらどうしようというの……? 一緒に、一緒に!」
彼女は周りのことも忘れてしまったかのように、何度も彼を抱きしめながら繰り返しました。
「わたし、懲役の場所にだってあなたと一緒に行くわ!」

その瞬間、ラスコーリニコフの全身がピリリとけいれんしました。
彼の唇には、先ほどまでの冷たい、どこか傲慢な微笑みが浮かびました。
「僕はね、ソーニャ。まだ懲役に行く気になったとは限らないよ」と彼は言いました。
ソーニャはすばやく彼の顔をのぞき込みました。
不幸な彼に対する感激と、苦痛に満ちた同情が落ち着くと、またしても「殺人」という恐ろしい現実が彼女の心を打ちました。
急に変わった彼の口調に、彼女はふと殺人者の声を聞いたような気がしたのです。
彼女はぎょっとして彼を見つめ返しました。
どういう理由で、どうして、なんのためにそんなことが行なわれたのか。彼女にはまだ何もわかっていなかったのです。
これらの疑問が一気に彼女の頭の中に燃え広がりました。
そして、彼女はまたしても信じられない気持ちになりました。
『この人が、この人が人殺しなんて! いったいそんなことがあっていいはずがないわ!』
「いったいこれはどうしたことなの! わたしは今、どこに立っているのかしら!」
彼女はまだ現実を受け入れられない様子で、深い疑念に悩みながら言いました。
「どうしてあなたは、そんな……そんなことが思い切ってできたの? いったい全体、どういうことなの!」
「ふん、なに、物を盗るためさ! もうよしてくれ、ソーニャ!」
なんとなく疲れたような、むしろいらだたしげな調子で彼は答えました。
ソーニャは脳天を打ちのめされたように突っ立っていましたが、ふいに声を上げて叫びました。
「あなたは食べるものもなかったんでしょう! あなたは……お母さんを助けようと思って……ね、そうでしょう?」
「いや、ソーニャ、違う」と彼は顔をそむけ、うなだれたままつぶやきました。
「僕はそんなにかつえてなんていなかった……じっさい、母を助けてやろうとは思ったけれど……でも、それだって完全に当たっているとは言えない……もう僕を苦しめないでくれ、ソーニャ!」
ソーニャは両手を打ち鳴らしました。
「ではいったい、何もかも本当なんですのね! ああ、どうしてそんなことが本当なんて言えるの? 誰がそんなことを本当にできるというの……? それに、どうして……ご自分からなけなしの金を人に恵んでやりながら、物を盗るために殺したなんて! ああ!」
彼女はふいに叫びました。
「あのカチェリーナ・イヴァーノヴナにおやりになったお金も……あのお金だって……ああ、いったいあのお金も、やっぱり……」
「違うよ、ソーニャ」と彼は急いでさえぎりました。
「あの金は違う、安心しておくれ! あの金は母さんが商人の手を通して送ってくれたものなんだ。僕が病気で寝ているところへ届いたのさ。お前たちにあげた当日届いたんだ……ラズーミヒンが見て知っている……あの男が僕の代わりに受け取ったくらいなんだから……あの金は僕のものだ、僕自身のものだ、本当の僕の金なんだ」

ソーニャはいぶかしげに彼のことばを聞きながら、一生懸命に何やらつじつまを合わせようと苦心していました。
「ところで、その金だが……僕はそこに金があったかどうか、それさえ知らないんだ」
と彼は物思いにふけるような低い声で付け加えました。
「僕はあの時、老婆が首にかけていた財布をはずしたんだ。ぎっちりいっぱいにつまった革の財布だ……だが、僕はその中を見なかった。きっと見る暇がなかったんだろう……ところで品物は、みんな飾りボタンだのくさりだのというものだが――僕はそんなものを全部財布と一緒に、翌朝V通りのある空地の石の下へ隠してしまった……今でもきっとそこにあるだろうよ……」
ソーニャは息を詰めて聞いていました。
「まあ、それじゃなんで……どうしてあなたは……物を盗るためだなんておっしゃりながら、ご自分では何もお取りにならなかったの?」
わらにもすがるような思いで、彼女は早口に尋ねました。
「知らない……僕はまだ腹が決まっていなかったんだ……その金を取るか、取らないか」
と彼はまた物思いにふけるように言いましたが、ふと自分を取り戻し、ちらりと薄い笑みを浮かべました。「くそっ、なんてバカなことを言っちまったんだ、僕は」

ふとソーニャの頭の中に、『この人、もしかして気が狂っているんじゃないかしら?』という考えがひらめきました。
けれど彼女はすぐさまその考えを打ち消しました。『いいえ、そんなはずはない。これはもっと別の、深い何かなんだわ』彼女には何ひとつ、まったく理解できませんでした。

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