初級翻訳・坊つちやん 第4話

坊つちやん

汽車がずいぶんと動き出してから、もう大丈夫だろうと思って窓から首を出し、振り返ってみると、清はまだそこに立っていました。
何だか、とても小さく見えました。

 ブウという音を立てて汽船が止まると、艀(はしけ)が岸を離れてこちらへ漕ぎ寄せてきました。
船頭は真っ裸で、赤いふんどしだけを締めています。
野蛮な所です。
もっとも、この暑さでは服なんて着ていられないのでしょう。
日差しが強いので、海面がやけに光っています。
見つめているだけでも目がくらむほどです。
事務員に聞いてみると、私はここで降りるのだそうです。
見るところ、大森くらいの小さな漁村です。
人を馬鹿にしやがって、こんな所に我慢ができるものかと思いましたが、仕方ありません。
私は威勢よく、一番乗りで飛び込みました。続いて五、六人は乗ったでしょうか。そのほかに大きな箱を四つほど積み込んで、赤いふんどしの船頭は岸へと漕ぎ戻っていきました。

陸に上がると、私は一番乗りで飛び出し、磯に立っていた鼻たれ小僧をいきなりつかまえて、中学校はどこだと聞きました。小僧はぼんやりした顔で「知らんがの」と言いました。気の利かない田舎者です。猫の額ほどしかない小さな町なのに、中学校の場所も知らない奴があるものか。

そこへ妙な筒袖の着物を着た男がやってきて、「こっちへ来い」と言うので、ついていくと「港屋」という宿屋に連れて行かれました。嫌な感じの女たちが声を揃えて「お上がりなさい」と言うので、中に入るのが嫌になりました。門口に立ったまま「中学校を教えろ」と言うと、中学校はこれから汽車で二里ほど行かなくてはいけないと聞き、さらに上がるのが嫌になりました。私は筒袖の男から自分の革鞄を二つひったくると、のそのそと歩き出しました。宿屋の連中は変な顔をしていました。

停車場はすぐに見つかりました。切符も訳なく買えました。乗り込んでみると、マッチ箱のような汽車です。ゴロゴロと五分ほど動いたと思ったら、もう降りなければなりません。道理で切符が安いわけです。たったの三銭でした。

それから人力車を雇って中学校へ行くと、もう放課後で誰もいません。宿直の先生はちょっと用事で出かけている、と小使いが教えてくれました。随分と気楽な宿直がいるものです。校長にでも尋ねようかと思いましたが、疲れたので車夫に「宿屋へ連れて行け」と命じました。車夫は勢いよく「山城屋」という宿の前に横付けしました。「山城屋」とは質屋の勘太郎の屋号と同じなので、少し面白いなと思いました。

二階の階段の下にある暗い部屋へ案内されました。暑くてたまりません。こんな部屋はいやだと文句を言うと、「あいにく、ほかの部屋は全部ふさがっておりますから」と言いながら、私の革鞄を放り出したまま出て行きました。仕方がないので部屋の中に入り、汗をかきながら我慢していました。やがて「風呂に入れ」と言われたので、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がりました。帰りがけに覗いてみると、涼しそうな部屋がたくさん空いています。失敬な奴です。嘘をつきやがったな。

それから下女が膳を持ってきました。部屋は暑かったけれど、飯は下宿のよりもずっと旨かったです。給仕をしながら下女が「どちらからおいでになりました?」と聞くので、「東京から来た」と答えてやりました。「すると東京はよい所でしょうねえ」と言うので、「当たり前だ」と答えてやりました。膳を下げた下女が台所へ行ったとき、大きな笑い声が聞こえました。くだらないので、すぐ寝たのですが、なかなか眠れません。暑いばかりではありません。騒々しいのです。下宿の五倍くらいやかましい。

うとうとすると、清の夢を見ました。清が越後の笹飴を、笹ごとむしゃむしゃ食べています。「笹は毒だからやめたほうがいい」と言うと、「いいえ、この笹がお薬でございますから」と言って、旨そうに食べています。私があきれ返って大きな口を開けてハハハハと笑うと、目が覚めました。下女が雨戸を開けています。相変わらず空の底が突き抜けたような晴天です。

旅先では茶代(チップ)をやるものだと聞いていました。茶代をやらないと粗末に扱われると聞いていました。こんな狭くて暗い部屋へ押し込められたのも、茶代をやらないせいでしょう。見すぼらしい服装をして、ズックの革鞄と毛繻子の蝙蝠傘を提げているから馬鹿にされたのでしょう。田舎者のくせに人を見くびったな。一番茶代をやって驚かしてやろう。

私はこれでも学資の余りを三十円ほど懐に入れて東京を出てきたのです。汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いても、まだ十四円ほどあります。みんなやったって、これからは月給をもらうのだから構いません。田舎者はしみったれだから、五円もやれば驚いて目を回すに決まっています。どうなるか見ていろ、とすまし顔で顔を洗って、部屋へ帰って待っていると、夕べの下女が膳を持ってきました。盆を持って給仕をしながら、やけにニヤニヤ笑っています。失敬な奴です。顔の中にでもお祭り騒ぎでも通り過ぎたのか。これでもこの下女の面よりはよっぽど上等だ。

飯を済ませてからにしようと思っていましたが、癪に障ったので、途中で五円札を一枚出し、「あとでこれを帳場へ持って行け」と言いました。下女は変な顔をしていました。それから飯を済ませてすぐ学校へ出かけました。靴は磨いていませんでした。

学校は昨日、車で乗りつけたので大体の見当はついています。四つ角を二、三度曲がるとすぐ門の前へ出ました。門から玄関までは御影石が敷き詰められています。昨日、この敷石の上を車でガラガラと通ったときは、むやみに仰々しい音がするので少し弱りました。途中から小倉の制服を着た生徒たちにたくさん会いましたが、みんなこの門をはいっていきます。中には私よりも背が高くて強そうなのがいます。あんな奴を教えるのかと思うと、なんだか気味が悪くなりました。名刺を出すと、校長室へ通されました。校長は薄髭のある、色の黒い、目の大きな、狸のような男です。やけにもったいぶっていました。「まあ、精を出して勉強してくれ」と言って、校長は大きな印が押された辞令を恭しく手渡した。
この辞令は、のちに東京へ帰るときに丸めて海の中へ放り投げてしまった。
校長は「今から職員たちに紹介するから、一人ずつその人にこの辞令を見せるように」と言い含めた。
余計な手間だ。
そんな面倒なことをするより、この辞令を三日間、職員室の壁にでも貼り付けておく方がずっとましだ。
教員たちが控室に集まるには、一時間目の合図のラッパが鳴らなくてはならない。
まだだいぶ時間がある。
校長は時計を出して見て、「追々、ゆっくり話すつもりだが、まずは大体のことを飲み込んでおいてもらおう」と言い、それから教育の精神について長いお説教を垂れ始めた。
俺はもちろんいい加減に聞いていたが、話の途中から「とんでもない所へ来てしまった」と思った。
校長の言うような立派な振る舞いなんて、とても俺にはできない。
俺みたいに無鉄砲な人間を捕まえて、「生徒の模範になれ」だの、「一校の師表と仰がれなくてはいかん」だの、「学問以外に個人の徳を生徒に浸透させなくては教育者とは言えない」だの、とんでもなく法外な注文をしてくる。

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