初級翻訳・坊つちやん 第24話

坊つちやん

俺は小倉の袴をはいて、また出かけた。
大きな玄関で呼び出すと、また例の弟が出てきた。俺の顔を見て「また来たのか」という目つきをした。用事があれば二度だって三度だって来る。夜中だって叩き起こさないとは限らない。教頭のところへご機嫌伺いに来るような人間だと見くびっているのか。これでも、月給が入らないから返しに来たんだ。

弟が「今、客中だ」と言うから、「玄関でいいからちょっと会いたい」と伝えると、奥へ引っ込んだ。足元を見ると、畳敷き用の薄っぺらで、滑りやすい駒下駄が置いてある。奥から「万歳!」という声が聞こえてくる。客は野だだなとピンときた。野だでなければ、あんな甲高い声を出して、芸人じみた下駄を履く奴はいない。

しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出てきて、「まあ上がりたまえ、外の人じゃない、吉川君だ」と言う。「いえ、ここで十分です。ちょっと話せばいいんです」と言って、赤シャツの顔を見ると金時のように赤くなっている。野だ公と一杯やっているらしい。

「さっき僕の月給を上げてやるという話でしたが、少し考えが変わったので断りに来たんです」

赤シャツはランプを前に突き出して、奥から俺の顔を眺めたが、とっさのことで返事ができず、呆然としている。増給を断る奴なんて世の中に一人しかいないから不審に思ったのか、あるいは断るにしても、帰ったばかりでわざわざ出直してこなくてもいいだろうと呆れ返ったのか、それとも酒が回っているのか、妙な顔をして突っ立っている。

「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
「古賀君は、自分の希望で転任するわけじゃないんです」
「そうじゃないんです。本人はここにいたいんです。元の月給でもいいから、故郷にいたいと言っているんです」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか?」
「いや、当人から聞いたわけじゃありません」
「じゃあ、誰から聞いたのです?」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのお母さんから聞いたのを今日僕に話したんです」
「じゃあ、下宿の婆さんがそう言ったのですね」
「まあ、そうです」
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、『下宿屋の婆さんの言うことは信じるが、教頭の言うことは信じない』と言っているように聞こえますが、そういう意味に解釈しても差し支えありませんか?」

俺は少し困った。文学士というのはやっぱり偉いものだ。妙なところにこだわって、ねちねちと押し寄せてくる。親父によく「貴様はそそっかしくてダメだ」と言われていたが、なるほど、俺は少しそそっかしいようだ。婆さんの話を聞いてカッとなって飛び出してきたが、実はうらなり君やそのお母さんに会って詳しい事情を聞いたわけじゃない。だから、こうやって文学士流に斬りつけられると、うまく受け止めにくい。

正面からは受け止めにくいが、俺はもう心の中で赤シャツを信用しないと決めていた。下宿の婆さんもケチで欲張りだが、嘘はつかない女だ。赤シャツのように裏表はない。俺は仕方がないからこう答えた。

「あなたの言うことは本当かもしれないですが……とにかく増給はご辞退します」
「それはますますおかしい。今、君がわざわざ来たのは『増給を受けるには忍びない理由を見つけたからだ』と聞こえましたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず、増給を拒まれるのは少し解せませんね」
「解せないかもしれませんがね」「とにかくお断りしますよ」

「そんなに嫌なら無理強いはしませんが、ほんの二、三時間のうちに、これといった理由もなく考えをひっくり返しては、将来の君の信用にかかわりますよ」

「かかわっても構いません」

「そんなことはないはずです。人間、信用ほど大切なものはありませんから。よしんば一歩譲って、下宿の主人が……」

「主人じゃありません、お婆さんです」

「どちらでもよろしい。その下宿のお婆さんが君に話したことを事実だとしても、君の月給が上がるのは、古賀君の給料を削って捻出するわけではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代わりの先生が来る。その新しい先生が、古賀君よりも少し安い給料で来てくれる。その余った分を君に回すという話ですから、君は誰に対しても申し訳なく思う必要はないはずです。古賀君は延岡へ行って、今よりも出世する。新任の先生は、最初からの約束通り安く雇われる。そのおかげで君の月給が上がるのなら、これほど都合のいい話はないと思うのですがね。いやならそれでもいいが、もう一度家でよく考えてみませんか」

俺の頭はあまり賢くないから、普段なら相手がこうして巧みな話術を繰り出せば、「ああ、そうかな。それじゃあ俺が間違っていた」と恐れ入って引き下がるところだが、今夜はそうはいかない。ここへ来た最初から、赤シャツにはどうも虫が好かないところがあった。途中で親切な女性のような男だと思い直したこともあったが、どうやらそれも親切でも何でもなさそうなので、その反動で今ではすっかり嫌気がさしている。

だから、相手がどれほど見事に論理を組み立てて弁論を尽くそうとも、堂々たる教頭先生の流儀で俺を言い負かそうとしても、そんなことは知ったことではない。議論が上手い人が善人とは限らないし、言い負かされる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャツの方がもっともらしく聞こえるが、表向きがいくら立派でも、腹の中まで惚れさせることはできない。金や力や理屈で人の心が買えるなら、高利貸しでもお巡りさんでも大学教授でも、みんな一番人に好かれているはずだ。中学の教頭程度の論法で、俺の心がどう動くものか。人間は好き嫌いで動くものだ。論理で動くものじゃない。

「あなたの言うことはもっともですが、僕は増給がいやになったので、まあ断ります。考えたって同じことです。さようなら」

そう言い捨てて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかっている。

うらなり君の送別会がある日の朝、学校へ行くと、山嵐が突然やってきた。

「先だってはいか銀(という骨董屋)が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと頼んできたから、真面目に受けて君に『出てやれ』と話したんだが、あとから聞いてみると、あいつは悪い奴で、よく偽の絵に偽の落款(ハンコ)を押して売りつけるそうだから、君の件もデタラメに違いない。君に掛け軸や骨董品を売りつけて商売にしようとしたのに、君が取り合わなくて儲けがないものだから、あんな作り話をして誤魔化したんだ。僕はあの人物を知らなかったので、君に大変失礼をした。勘弁してくれ」

山嵐は長々と謝罪した。俺は何とも言わずに、山嵐の机の上にあった一銭五厘(当時の小銭)を手に取って、俺の財布の中へ入れた。山嵐は「君、それを自分のものにするのか?」と不審そうに聞くから、「うん。俺は君におごられるのが嫌だったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱりおごってもらう方がいいようだから、自分のものにするんだ」と説明した。

山嵐は大きな声で「アハハハ」と笑いながら、「それなら、なぜ早く取らなかったんだ?」と聞いた。

「実は取ろう取ろうと思っていたが、何だか妙な気分でそのままにしておいた。

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