なぜかと言いますとね、ほかでもありません。私がその男に、いわば「一定の地位」を与え、精神的にある方向性を与えて、かえって彼を落ち着かせてしまうことになるからです。するとその男は私から離れて、自分の殻の中に深くもぐり込んでしまいます。つまり、「ああ、自分はもう囚人なんだ」と自覚してしまうわけです。
なんでもあのセヴァストーポリでの戦いのとき、戦線が突破された直後、識者連中は「今にも敵が真正面から攻め込んできて、一気にセヴァストーポリを陥落させるだろう」と恐れおののいたものです。ところが、敵が正攻法による包囲を選んで、最初の平行壕(へいこうごう)を掘り始めたのを見ると、その識者連中は大喜びで安心したという話です。なぜなら、正攻法による包囲ではいつ決着がつくか分からないから、少なくともあと二ヶ月は先延ばしになるからです!
またあなたは笑っておいでですね、また本当だとは認めてくださらない。まあ、それも無理はありません。あなたが正しいとも言えます。正しいですよ、正しいとも! 今のような話はあくまで特殊なケースです、あなたのおっしゃる通りです。こんなことはみんな例外的な場合です!
しかし、ロジオン・ロマーヌイチ、この際次の事実も見ておかなければなりません。つまり、あらゆる法律上の形式や規則が適用され、書物にまでちゃんと書き込まれているような「普遍的な事件」なんてものは、この世に一つも存在しないということなんです。なぜなら、すべての事件、たとえば犯罪などもそうですが、それが現実に発生した瞬間、直ちに完全に「特殊な一個の事件」になってしまうからです。時によると、まるっきり前例のないようなものにさえなってしまいます。
したがって、そんな意味で滑稽きわまる事件が生じることも、往々にしてあるんですよ。まあ仮に、私がその男を勝手に一人で放っておくとしましょう。逮捕もしなければ、いっさい迷惑をかけるようなこともしない。ただ、こちらがいっさいの秘密を知り尽くしていて、夜も昼もその行動に注目し、油断なく監視していることを、当人にしょっちゅう、絶え間なく感じさせるのです。少なくとも、疑われているのではないかと仕向ける。こうして、その男が絶えず私から疑われ、脅かされていると意識してごらんなさい。それこそ全く頭がぐらぐらしてきて、あげくの果てには自分から自首するようになります。しかもその上に、二かける二は四といったような、いわゆる数学的に正確な証拠となるようなことを自分でやらかすに決まっている――なかなか愉快なもんですよ。
こういうことは熊みたいな田舎の百姓にだってあり得る話ですから、ましてや我々仲間の、現代的な頭脳を持っていて、おまけにある方向に偏った発達を遂げた人間なら、なおさらです! だからこそ、その男がどういう方向に発達を遂げた人物か、それを知るのが一番肝心なんです。
それから神経ですな、神経というやつ、あなたはこいつを忘れていらっしゃる! 今の時代、この種の連中の神経はみんな病的で、栄養不良で、おまけにいらいらしているんですからな!……つまり胆汁の作用です。彼らにはこの胆汁がどれくらいあるか、底が知れないほどですよ! これは実際言ってみれば一種の鉱脈みたいなものです! だから、その男が縄をかけられないで街を歩き回っていても、私には別段なんの心配もありません! いいえ、勝手にしばらくの間散歩させておけばいいのです。
私は何をしなくても、その男が要するにこちらの獲物であり、私の手からどこへも逃げられないのが、ちゃんと分かっているんですからね! それに、どこへ逃げようというんです? へ、へ! 外国ですかね? 外国へ逃げるのはポーランド人くらいなもので、その男じゃありません。ことに私は四六時中監視して、ちゃんと手段を講じているんですからなおのことです。では、内地の奥深くへでも逃げ込みますかな? しかし、そこには百姓たちが住んでいるんですよ。正真正銘の、むくつけきロシアの百姓たちがね。教養のある現代人なら、この国の百姓みたいな外国人と一緒に暮らすくらいなら、いっそ監獄へ入る方を選ぶでしょうねえ、へへっ! まあ、そんなことはみんなくだらない、外面的な問題にすぎませんがね。
いったい逃亡なんて、何のことでしょう? そんなものはただの形式的な話ですよ。
肝心なことは、そんなこととはわけが違います。
その男がどこへも逃げる先がないというだけの理由で、わたしの手から逃げられないわけじゃありません。
心理的に、わたしの傍から逃げ出せないんですよ、へへっ! どうです、この言い回し! つまりその男は、たとえ逃げ道があったとしても、自然の法則によって逃げられないというわけです。
あなたはろうそくの火にひらひらと寄ってくる蛾を見たことがあるでしょう? ねえ、ちょうどあれと同じように、その男はわたしのまわりを始終ぐるぐると回るはずですよ。
ちょうど蛾がろうそくのまわりを回るようにね。
自由でいることさえうれしくなくなり、考え込んだり、うろたえたりしはじめる。
そして、蜘蛛の巣に巻き込まれたように、自分で自分をすっかり縛り上げてしまい、死ぬほど一人で苦しい目に遭うに決まっている!……そればかりか、二かける二は四といったような、数学的に正確な証拠を自分でこしらえて、こちらへ差し出してくれるんです――ただ、少しばかり幕間を長くしてやりさえすればね……。そして、絶えずひっきりなしにわたしのまわりで円を描きながら、その輪をだんだん狭くして、最後にはぱたっと引っかかる! まっすぐにわたしの口へ飛び込んでくるんです。
すると、わたしがそれをガブリと飲み込むという寸法ですよ。
ねえ、これは実に愉快なもんですよ。
へへへっ! あなた、まだ本当だとは思いませんか?」
ラスコーリニコフは返事をしなかった。
彼は始終同じ緊張した表情で、ポルフィーリイの顔を見つめながら、真っ青な顔をして、身動きもせず座っていた。
『けっこうなお説教だ!』彼は全身に寒気を覚えながら考えた。
『こうなると昨日のように、猫が鼠をおもちゃにしているどころの話じゃない。
まさかこの男、おれに意味もなく自分の力を誇示して……親切に助言をしてくれているわけじゃあるまい。
そんなへまをするには、この男は少し利口すぎる……これには何かほかに目当てがあるはずだ。いったいそれはなんだ? ちぇっ、ばかばかしい。きさまはおれを脅かして、裏をかこうとしているんだろう! ところが、きさまにはなんの証拠もないし、昨日の男だってこの世にいやしない! ただきさまはおれをまごつかせたうえ、早まってイライラさせておき、その隙にパッサリいこうという魂胆だろう。
ご冗談でしょうよ、しくじるに決まっている、しくじるに決まっているとも! だがなぜ、いったいなぜ、これほどまでに入れ知恵をするんだろう?……おれの病的な神経を狙ってでもいるのか!……なあに、だめなこった。きさまがどんな小細工をしようと、しくじるに決まっているんだ……まあ、一つ見てやろうじゃないか、きさまがどんな細工をしているか』
こう考えた彼は、恐ろしくて計り知れない破局に対して心構えをしながら、全身の力を込めて心を強く持とうとした。
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