初級翻訳・坊つちやん 第19話

坊つちやん

「それじゃ僕も二十四でお嫁さんをもらうから、世話をしてくれないかな」と、田舎言葉を真似て頼んでみたら、お婆さんは正直に「本当ですか?」と聞いてきた。
「本当の本当に、俺は嫁がもらいたくて仕方がないんだ」
「そうでしょうねぇ。若いうちは誰でもそんなものですから」
この言葉には参ってしまって、何も返せなかった。
「でも先生はもう、奥様がいらっしゃるに決まっていますよ。私はちゃんと、もう見抜いているんですから」
「へえ、鋭いですね。どうしてそう言いきれるんですか?」
「どうしてって、あなた。東京から便りはないか、まだか、と毎日待ち焦がれていらっしゃるじゃないですか」
「こいつは驚いた。とんでもない名探偵だ」
「当たったでしょう?」
「そうですね。当たったかもしれませんよ」
「でも最近の女性は、昔と違って油断ができませんから、お気をつけなさいよ」
「何ですか、僕の奥さんが東京で浮気でもしているとでも言うんですか?」
「いいえ、あなたの奥様は確かだとは思いますが……」
「なら安心した。じゃあ何に気をつければいいんです?」
「あなたのは確かですが……あなたのは確かですがねぇ……」
「どこに不確かな女がいるっていうんですか」
「ここらにも随分といますよ。先生、あの遠山のお嬢さんをご存知ですか?」
「いいえ、知りませんね」
「まだご存知ないんですか。ここらであなた一番の美人ですよ。あまりに美人なので、学校の先生方はみんな『マドンナ』『マドンナ』と呼んでいるんですよ。まだ聞いたことがありませんか?」
「うん、マドンナですか。俺は芸者の名前かと思いましたよ」
「いいえ、あなた。マドンナというのは外国の言葉で、美人のことらしいですよ」
「そうかもしれませんね。驚いた」
「たいてい画学の先生がつけた名前ですよ」
「野だがつけたんですか?」
「いいえ、あの吉川先生がつけたそうですよ」
「そのマドンナというのが不確かなんですか?」
「そのマドンナさんが、不確かなマドンナさんでしてねぇ……」
「厄介ですね。あだ名なんかつけられている女には、昔からろくな奴はいませんからね。そうかもしれませんよ」
「本当にそうですねぇ。鬼神のお松だの、妲妃のお百だの、怖い女がいましたよねぇ」
「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがね、あなた。ほら、あなたをここへ世話してくれた古賀先生……あの方のところへお嫁に行く約束ができていたはずなんですがねぇ……」
「へえ、不思議なものですね。あのうらなり君が、そんな艶福のある男だったとは。人は見かけによらないものだな」「気をつけておいたほうがいいですよ」
「ところが去年、あのお嬢さんのお父様が亡くなられてね。それまではお金もあって、銀行の株も持っていらっしゃって、何もかも順調だったのですよ。ところがそれからというもの、どういうわけか急に暮らし向きが苦しくなってしまって……。つまり、古賀さんはあまりに人が良すぎるものだから、うまく騙されてしまったのですよ。

そんなこんなで結婚の話も延び延びになっていたところへ、あの教頭先生がやってきて、ぜひお嫁さんにほしいと言い出したのですよ」
「あの赤シャツがですか。ひどい奴だな。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思っていたんだ。それからどうなったんです?」
「誰かを頼んで間に入ってもらってみると、遠山のお家も古賀さんに義理があるから、すぐには返事ができないと……まあ、よく考えてみますというくらいの挨拶をしたそうですよ。
すると赤シャツさんが、手づるを求めて遠山さんの家に出入りするようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手なずけてしまったのですよ。赤シャツさんも赤シャツさんですが、お嬢さんもお嬢さんだと言って、みんなが悪く言っていますよ。一度は古賀さんのところへ嫁ぐと約束しておきながら、今さら学士さんが現れたからといって、そっちに乗り換えるなんて。そんなこと、お天道様に申し訳が立たないじゃありませんか」
「まったくその通りだ。お天道様どころか、明日も明後日も、いつまで経っても顔向けできない話ですよ」
「それで、古賀さんがお気の毒だということで、お友達の堀田さんが教頭のところへ意見を言いに行ったんです。すると赤シャツさんが『私は、婚約者がいる女性を横取りするつもりはない。破談になればもらうかもしれないが、今のところは遠山家とただ交際をしているだけだ。遠山家と交際をするのに、別段古賀さんに悪いことをしているわけではないだろう』と言い放ったそうで、堀田さんもどうしようもなくて帰ってきたそうです。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来ずっと仲が悪いという評判ですよ」
「よくいろいろなことを知っていますね。どうしてそんなに詳しいことがわかるんですか。感心しちゃいましたよ」
「狭い町ですから、何でもわかりますよ」

わかリすぎて困るくらいだ。この様子じゃ、おれの天ぷらや団子のことまで知っているかもしれない。厄介なところだ。しかしおかげさまで、マドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかって、大いに勉強になった。ただ困るのは、どっちが悪者だか判然としないことだ。おれのような単純な人間には、白か黒かはっきりさせてくれないと、どっちに味方をしていいのかわからない。

「赤シャツと山嵐では、どっちがいい人なんですかね」
「山嵐って誰のことですか?」
「山嵐というのは堀田のことですよ」
「そうですねえ、力があるのは堀田さんの方でしょうけれど、しかし赤シャツさんは学士さんですからね、仕事ができる方ですよ。それに、優しいのも赤シャツさんの方が優しいけれど、生徒たちの評判は堀田さんの方がいいと言われていますよ」
「つまり、どっちがいい人なんですか?」
「つまり、給料が多い方が偉いのでしょうねえ」

これじゃ聞いても仕方がないから、話をやめた。
それから二、三日して学校から帰ると、お婆さんがにこにこしながら「お待たせしました。やっと届きましたよ」と言って、一通の手紙を持ってきて「ゆっくりご覧なさい」と言い残して出ていった。

受け取ってみると、清からの手紙だ。付箋が二、三枚ついているからよく調べてみると、山城屋から「いか銀」のほうへ回して、それから萩野(ここの宿)へ回ってきたものらしい。そのうえ、山城屋で一週間ほど滞在している。宿屋だけに、手紙まで泊まるつもりなんだろう。

開いてみると、非常に長いものだ。
『坊っちゃんの手紙をいただいてから、すぐ返事を書こうと思いましたが、あいにく風邪をひいて一週間ほど寝ていたものですから、つい遅くなって申し訳ありません。そのうえ、今どきのお嬢さんのように読み書きが上手ではないものですから、こんな下手な字でも書くのにずいぶん骨が折れました。甥に代筆を頼もうかとも思いましたが、せっかくあげるものなのに自分で書かなくては坊っちゃんに申し訳ないと思って、わざわざ下書きを一度して、それから清書をしました。清書をするには二日で済みましたが、下書きをするには四日かかりました。読みにくいかもしれませんが、これでも一生懸命に書いたのですから、どうぞ最後まで読んでください』
という冒頭で、四尺(約1.2メートル)ほどあれこれと書き連ねてある。

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