初級翻訳・罪と罰 第142話

ドストエフスキー

どうかすると、ポルフィーリイに飛びかかって、その場で締め殺してしまおうか、と思うことがあった。
彼はここへ来る途中から、この憎悪がこみ上げてくるのを恐れていたのである。
彼は唇がカラカラに乾いて、心臓がドキン、ドキンと鼓動し、口の中に唾が干からびつくのを感じた。
が、それでも彼は沈黙を守って、時が来るまでは一言も漏らすまいと覚悟した。
彼は自分の立場として、これが最善の戦術だと悟っていたのである。
なぜなら、そうすれば自分の方でうっかり口を滑らせる心配がないばかりか、かえってその沈黙によって敵自身をイライラさせ、あまつさえ何かうっかり喋らせることさえできるかもしれないからだ。
少なくとも、彼はこれを当てにしていた。
「いや、お見受けするところ、あなたはまだ信じてくださらないようですね。
それに、まだわたしが何か罪のない冗談でも並べているように、思っていらっしゃるらしい」ポルフィーリイはますます愉快そうな様子になり、満足のあまり絶えずヒヒッと笑いながら、こうして自分の言葉を引き取ると、またもや部屋の中をぐるぐると回り出した。
「そりゃもちろん、ごもっともな話です。
わたしはもうこの風体からして、人に滑稽な感じしか起こさせないように、神様から造られているんですからな。
ずんぐりした男ですよ。
しかし、わたしはこう申し上げたいのです。
もう一度繰り返して申しますが、ロジオン・ロマーヌイチ、どうか老人の差し出口をお許しください。
あなたはまだお若くて、いわば青春の花ともいうべき時期にある人です。
だから一般に若い人の例に漏れず、人知というものを何より尊重しておいでになる。
遊戯的な機知のひらめきや、理屈の抽象的な組み立てなどが、あなたを誘惑しているようです。それはちょうど、わたしが軍事に関して判断しうる限りでは、オーストリアの軍事会議にそっくりそのままですな。彼らは紙の上ではナポレオンを粉砕して、捕虜にまでしてしまいました。とにかく自分たちの書斎では、縦横の機知を弄していっさいを計画し、敵を術中におとしいれました。ところが事実の上ではどうでしょう、あにはからんやマック将軍、全軍を率いて降伏してしまった。へ、へ、へ! いや、わかっていますよ、わかっていますよ、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしが文官の身でありながら、軍事上の例ばかりを引くのを、あなたはおかしく思っておいでになるのでしょう。だが、どうもいたし方がありませんよ、これがわたしの弱点なんですから。軍事上のことが好きでしてな、戦争報告類を読むのが大好きなんですよ……全くわたしは自分の進路を誤りましたよ。わたしなどは軍隊に勤めるとよかったんです、全く、ナポレオンにはなれなかったにしても、まあ少佐くらいにはなれたでしょうにね、へ、へ、へ! さて、ここでわたしはあなたにそのなんですな、特殊な場合という事について、ほんとうのことを詳しくお話ししましょう。

ねえ、あなた、現実とか自然とかいうものは実に重要なものですよ。時とすると、それは周到をきわめた計画をも瓦解さしてしまいますからね! ま、ま、老人のいうことをお聞きなさい。わたしはまじめにいってるんですから、ロジオン・ロマーヌイチ(こう言った時、三十五になったばかりのポルフィーリイが全く急にすっかり年をとったように見えた。声まで変わって、腰もかがんだように思われた)。それにわたしはあけっ放しな男でしてな……わたしはあけっ放しでしょう、それとも違いますかな? どうですあなたのお考えは? もう十分そうだろうと思われますがね。何しろこんな事まであなたにただでお教えして、おまけになんのお礼も請求しないんですからな、へ、へ! さて、そこで先を続けますが、機知というものはすばらしいもので、いわば自然の美であり、人生の慰めであって、いかなる細工でもみごとにやってのけられそうに思われます。どうかすると、自分の妄想に夢中になっているどこかのみじめな予審判事などには、とてもそいつを見破ることなんかできそうもない、という気がするくらいです。これはよくあるやつで、何しろ予審判事もやはり人間ですからな! ところが、自然性というやつが、そのみじめな判事を救ってくれるんで、これが困りものなんですよ! それだのに、機知に深入りして『あらゆる障害を踏み越して行く』(これは昨日あなたがいわれた賢明かつ巧妙無比な表現なんですが)青年は、この点をまるで考えようともしないのです。

で、そりゃ仮りにうまく嘘をつくとしましょう、ある男がですよ。つまり特殊な場合のことですよ。人知れず、手ぎわよく、巧妙無比な嘘をつきおおせるとしましょう。もうこれで大成功、いよいよ自分の機知の成果を楽しむことができる、とこう思っていると、あにはからんや、先生、ぱったりいってしまう! もっとも大切な、もっとも騒動を起こしやすい場所で卒倒なんかしてしまう。そりゃまあ病気だとか、あるいは部屋の中が息苦しかったとか、いうようなことはありましょうが、それにしてもねえ! やはりある暗示を与えたことになります! 先生、嘘だけは無類につきおおせたが、自然性を勘定に入れることを忘れたんです! ここにその、天の配剤があるんですな! またどうかすると、その男は自分の機知の遊戯性につり込まれて、自分に嫌疑をかけている相手を愚弄し始めるんです。さもわざとらしく、さもお芝居らしく青くなって見せるが、しかしあまり自然らしすぎるくらいに、あまりまことしやかに青くなって見せる。で、結局やはり暗示を与えるわけになってしまう! よし初め一度は欺きおおせても、相手がまぬけでない限り、一晩のうちにこっちだって悟ってしまいます。何しろまあ、一歩毎にこの調子なんです! いや、何もいちいち言うがものはありませんよ。自分の方からお先き回りをしたり、問われもしないことに口を出したり、またその反対に、黙ってなければならんことを、やたらにぺらぺらしゃべったり、いろんな謎をかけたりするようになるんですよ、へ、へ! しまいには自分からのこのこやって来て、なぜわたしをこんなに長く捕縛しないんです? なんて尋ね始める。へ、へ、へ! しかも、これほど頭の切れる心理学者や文学者ですら、こういう罠に陥ってしまうことがあるのですからね! 自然というのは鏡のようなものです。この上なく澄みきった鏡なんですよ! まあ、せいぜい自分の姿を映して、うっとりと見惚れていればいい。まったく、笑い話ですよ! おや、ロジオン・ロマーヌイチ、どうしてそんなに顔が青ざめているんですか? 息苦しいのではないですか? 窓でも開けましょうか?」

「いや、お構いなく」ラスコーリニコフはそう叫ぶと、突然からからと笑い出した。

「どうか、お構いなく!」

ポルフィーリイは彼の正面で立ち止まり、しばらく様子をうかがっていたが、やがて自分もつられて、急にからからと笑い出した。

ラスコーリニコフは、その突発的な笑いをぷつりと切り上げると、長椅子から立ち上がった。

「ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ!」彼は震える足でようやく立っている状態だったが、力強く、はっきりと言い放った。

「僕は今、はっきりと理解しました。

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