肉の柔らかさや硬さ、ネギの煮え具合といった些細なことだけで、新婚のしばらくの間、二人は泣いたり笑ったりして時を過ごしたのです。
フライパンに落とすバターは、いつの間にか安いラードに変わり、時間が経つにつれて女は肉屋の主人にせびって、脂身をねだるほど、次第に貧乏な生活になっていきました。あの頃の二人の生活は楽しかった。二人の宿命の幕が上がったばかりだったからです。
では、今はどうでしょうか。簡単に言ってしまうなら、「それから十年の月日が流れた」ということになります。
十年前、台所で彼女が歌っていたジョセランの子守歌は、夫によって禁じられました。彼女が得意だった「サンタ・ルチーヤ」の歌もそうです。
「やめろ、そんな愚劣な歌は。風も絶え、波もなし……だと? そんな穏やかな現実には住んでいないんだ。時代は一九三五年だぞ。無神論者の台所でサンタ・ルチーヤでもあるまい」
男が罵ると、女はピタリと歌をやめてしまいます。風も波もない穏やかな歌に代わって、男は机の上に片足をかけ、シェークスピアの『リア王』の台詞を大見得を切って叫ぶのです。
「――吹け、風よ! 汝が頬を破れ、荒れ狂え! 吹き折れよ、汝、滝つ瀬よ、竜巻よ! 水を吹き上げ、風見車を溺らせ、尖塔の頂きを水浸しにするまで! 汝、思想の如く疾く走る硫黄の火よ、雷火の前駆の電光よ、わが白髪を焼き焦がせ!」「ねえ、お母さん。バルダク・ボリシヴィチって知ってる?」
母親のそばには、今や十歳になった少年が立っています。母親が知らないような物事を、毎日新しく持ち出しては母親を困惑させるのです。
「ねえ、お父さん。僕、お酒をちょっぴり飲んでみたいんだよ」
「よかろう」
「だってロシアのおとぎ話に出てくるバルダク・ボリシヴィチって、七歳の子どもなんだけど、のんだくれでいつも酒屋で寝ているんだよ。するとキエフの王様が、トルコ王サルタンを攻めるために、バルダクを大将に頼みにくるんだ。そしてバルダクは攻めていって……」
「ああ、ああ。その次はわかったよ。敵のサルタンの七人の娘と、天幕の中で寝るんだろう?」
「そうだよ、そうだよ! だから僕、お酒を飲んで強くなりたいんだよ」
「それで、天幕の中で寝るのか。アハハハ!」
母親はオロオロとして、父親と息子の会話のなりゆきを聞いています。
「まあ、なんていやらしいおとぎ話なんでしょうね」
性の世界ではいやらしい。では、男の戦いの世界ではどうでしょうか。七歳の大将バルダクに対し、七歳のトルコ王の娘が、女の性と愛情をもって天幕の中で男の戦いの意志を溶かし、抱擁して骨抜きにしようと計画します。しかし、少年バルダクの戦いの意志は毅然として固い。女は添い寝をしながら、ひそかにバルダクのすねに、目印として金泥を塗って帰ります。夜が明け、陽が昇ると、娘はトルコ王の城へ帰ります。敵の王が呼び出したとき、どの首領がバルダクなのか、ひと目で「すねの金泥」でわかるようにという、性的な策略です。
男の知恵は無限で果てしない。やめよ、はかない性のやさしい陰謀よ。夜寝ている間だけは酔いがあるけれど、陽が昇れば男の酔いは醒めるのだから。いつも精神に陽が昇らない男だけが、昼でも夜でも女に負けてしまうのです。もし女よ、男を捕らえておこうと、男の愛情を永遠に絶対的なものにしようとするならば、すべての窓を閉ざしなさい。昼でも暗く、部屋へ、そして精神へ、カーテンを降ろすのです。
ああ、だが部屋は閉ざすことができても、宇宙の明かりは消すことができません。天地を過ぎてゆく巨大な太陽は、雀でさえ、太陽が昇れば「チチッ」と鳴いて軒先でひとときの別れを告げ、くちばしを軽くつつき合って、男の雀は女の羽を離れて生活のために飛んでゆくではないですか。
山寺の鐘がゴーンと鳴れば、明け方の障子紙に砂の粒を打ちかけて過ぎたような、サーッという音がします。それは松の木を揺らす爽快な風の音。そして「離れがたき肌と肌」と、東洋の古来の俗謡そのままで、歴史を超えて夜から暁まで、情痴の姿は繰り返されるのです。
「情愛に進歩性はないのか。愛は絶望であり、愛は反復であるのか」
悪魔は長い生活の間、そのことを思索してきました。悪魔の精神の散歩は、長く続きました。かつて可憐な若者だった頃のなだらかな感情には、今は無数のヒビ割れができています。結婚というものは、思いがけないプログラムを広げるものでした。未婚の男女が予期しないような筋書きが、夫婦生活の中で開かれていくのです。
夫婦生活の泡立ちは、若さには痛々しい。離れ合おうとしなかったのか。逢う時間よりも、逢わない時間を楽しむ。互いの生活に空間をつくり、空間を楽しむ術を知りだす。空間のみが、互いの自由の世界。哀しい、哀れな充実の世界。サラリーマンの勤めの外出に、いそいそと三指を玄関について見送る妻。それは亭主の送り出しではなく、亭主の放逐であった。――〈未完〉
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