初級翻訳・ジェームズ・ワット 第2話

ジェームズ・ワット

そのためパパンは、「この自分の機械を排水の作業に使ったら、きっとうまくいくだろう」と考えたのですが、こちらはまだ上手く成功するには至りませんでした。

その後、パパンは1707年にロンドンへと戻りましたが、当時の世間からはあまり認められることもなく、1712年に不遇のまま亡くなってしまったのです。

ところで、実際に鉱山の排水作業としてしっかりと役立てることのできる蒸気機関を、世界で初めて作り出したのは、イギリスのトーマス・セーヴァリーという人物でした。

この人は1650年頃に生まれ、大人になってからは軍隊に入り、そこでさまざまな技術にすっかり熟達したとのことです。

蒸気機関を発明してその特許を取得したのは1698年のことでしたが、パパンのものと比べると、その構造もいくらか複雑になっており、より巧妙に作られていました。

そのため、これを使うことによって、かなり深い穴からでも水をグングンと汲み出すことができ、当時の鉱山の持ち主たちから大いに喜ばれたということです。

もっとも、セーヴァリーの最初の機関にはまだ少し不完全なところがあったため、「それを改良するにあたってニューコメンという人の力を借りた」という話も伝わっていますが、それがどれほど確かなことなのかははっきりしていません。

それにしても、ともかくセーヴァリーのものよりも一層完成度の高い、素晴らしい蒸気機関をこのニューコメンが作り上げたことだけは間違いのない事実でした。

ニューコメンは1663年に生まれ1729年に亡くなった人ですが、ふだんは鍛冶屋(かじや)を商売にしていました。さらに、生まれた土地もセーヴァリーが住んでいた場所からそう遠く離れていなかったため、彼はセーヴァリーの作った蒸気機関の存在を間違いなく知っていました。

だからこそ、彼はそこにさらなる独自の工夫を加え、改良を施すことで、より実用的で役に立つものを作り上げることができたのです。

もっとも、その改良の際には、当時の王立協会の会員であり、非常に名高い科学者であったロバート・フックという人が、いろいろと有益な助言をしてくれたという言い伝えも残っています。

そうして1705年にその改良された機関が見事に完成し、その後はさまざまな地域の鉱山で実際に使われるようになっていったのでした。

ワットの発明

 蒸気機関はこのようにして、だんだんと実際の社会で使われるようになっていきましたが、この頃の機械は、燃料の使い方がとにかく不経済で、無駄が多いものでした。

なぜなら、筒(気筒)の中にある熱い蒸気を、ざぶんと外から水を注ぎ込んで無理やり冷ましてしまっていたからです。さらに、次にまた新しい蒸気を送り込もうとするときにも、冷えきった筒をわざわざ一時的に温め直さなければならず、それがそのまま大きな熱のロス(無駄)になっていたのです。

そのうえ、蒸気の持つパワーの利用のしかたもまだまだ十分とは言えず、その強い力をピストンなどに直接ダイレクトにつかうための、もっといい方法がなおも考え出されなければなりませんでした。

しかし、これらの点を改良するのはなかなかに難しく、その後も少しずつ独自のアイデアを試す人たちは現れたものの、結局のところ、あのジェームズ・ワットが登場するまでは誰も上手に成功させることができなかったのです。

ジェームズ・ワットは、1736年1月19日に、イギリスのグリノックという小さな港町で生まれました。

父親は大工でしたが、それ以外にもいくつかの商売を同時に営んでいたとのことです。

ワットは子どもの頃から体が弱かったのですが、それでも地元の学校を無事に卒業し、その後は父親の仕事場を手伝って働くようになりました。

ところが、その小さな頃からなぜか手先がものすごく器用で、その抜群の器用さは職人たちの間でもたちまち評判になったと言われています。

つまり、のちに世界を変えることになる彼の素晴らしい才能は、すでにこの幼い頃から、そのような日常のあちこちにハッキリと現れていたに違いなかったのです。しかし、1753年にはお母さんが亡くなってしまい、そのうえお父さんの商売もどうしても上手くいかなくなってしまったため、その翌年、ワットはグラスゴーにいるお母さん側の親戚のもとへ預けられることになりました。

彼はそこでなんとか自分の力で生きていこうと考え、親戚を通じてグラスゴー大学のディック教授にお願いしたところ、教授はとても同情してくれて、ロンドンの知り合いを紹介してくれたのです。

その頃のワットの夢は「数学の道具(測量や計算に使う器具)を作ること」だったので、あちこち探し回って、ようやくぴったりの働き口を見つけ、そこで見習い(徒弟)として働き始めましたふ。

そして、ものすごく熱心に仕事に打ち込んだ結果、ふつうなら3年も4年もかかるような技術を、なんと1年足らずですっかりマスターしてしまったというから驚きです。

こうして1757年にはふたたびグラスゴーへと戻ったのですが、なんと大学の敷地の中に自分のお店を開いて数学器具を作ってもよいという許可をもらうことができ、ワットは大喜びしてその仕事に励みました。

とはいえ、最初のうちは生活がかなり苦しかったようで大変な苦労をしたようですが、数年後にはジョン・クレイグという人と一緒に共同でお店を営むようになり、少しずつ生活もラクになっていきました。

そして1763年には、トロンゲートという通りに、ついに自分一人だけのお店を構えることさえできるようになったのです。

ワットはその後もいろいろな仕事を手がけましたが、蒸気機関に強い興味をもつようになったのは、ちょうどこの1763年の頃、グラスゴー大学から「ニューコメンの蒸気機関の模型を直してほしい」と頼まれたことがきっかけでした。

つまり、この出来事こそが、のちのワットの素晴らしい大発明につながっていくのですから、運命というものは本当に不思議なものですね。

ワットはそれまで、蒸気のはたらきについて知識をほとんど持っていませんでしたが、この模型を隅々まで調べていくうちに、さまざまな仕組みや原理を知るようになったのでした。

そうしてどうにか模型を修理し終えたものの、彼はこの機械にはたくさんの欠点があることにも気づき、「これをなんとかもっと良くしたい!」と強く思い立ったのです。

一番いけないところは、すでに説明したように、筒(気筒)のなかにある熱い蒸気の中に、わざわざ外から冷たい水を直接ぶっかけて冷ましてしまうという点でした。そこでワットは、「蒸気を別の場所に引っ張っていって、そこで冷やせばいいんじゃないか」と考えたのです。そして、筒から別の管を伸ばして新しく別の容器につなぎ、その容器だけを水で冷やす仕組みを思いつきました。

これが、今の時代に「凝結器(ぎょうけつき)」と呼ばれているものです。

このやり方を使えば、蒸気は別の場所で冷やされることになるため、メインの筒の温度が下がらずにすむようになりました。

つまり、それだけ蒸気を作り出すための燃料をたくさん節約できるということで、これは蒸気機関にとってめちゃくちゃ重要な意味を持っていたのです。

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