だってね、芸術は食べ物や洋服のように、生活に必要な実用品ではないんだ。
誰からも「これを作ってくれ!」と頼まれたわけでもないのに、自分で「生み出したい」と思って作るものなんだから、誰よりも心を込めて、ウソ偽りのない誠実な気持ちで作らなきゃいけないはずだよね。それなのに、作家たちのほうが世間の普通の人たちよりもずっと不誠実で中身がないなんて、そんなの、いったい何が文学なんだろう!
また一方で、たまたま外国の作品の「流れ」や「最初から最後までのつながり」をしっかり感じ取れる人がいたとしても、そういう人たちは、なんだか嫌にすました顔をして落ち着いていて、外国の文学全体についてもっと広く知ろうとはしないんだ。つまり、「こういう美しい形(フォルム)もあるんだな、あんな形もあるんだな」といういろいろな可能性を納得しようとしない。だから、たとえば「A」というお話に感動したとしても、その「A」が自分の中の文学という大きな世界の中で、どこにあるのか(どんな位置づけなのか)が分からないんだよね。これじゃあ、ただ手を広げて立っていたら、偶然そこにボールがすぽっと飛び込んできたようなもので、自分の力でしっかりとボールを受け止めた(自分のものにした)ことにはならないんだ。
だから、それは「おもしろいお話を読んで楽しんだ」ということにはなっても、「文学そのものを本当に理解した」ということにはならないんだよ。
少なくとも、誰かに向かって「これ、おもしろかったよ!」とは言えても、「これは本当に素晴らしい作品だ!」と自信を持って言うことはできないはずなんだ。
――この場合、文学についての知識や準備(素養)も足りないけれど、それ以上に「もっと深く知りたい!」という情熱が全然足りていないと言えるんだ。
文学というのは、文字さえ読めれば誰にでも読めるものだから、とても簡単に「ぼくも作家になりたい!」という人が現れるのが今の様子なんだ。だけど、文学を本当の仕事にするからには、詩人のヴェルレーヌの言葉を借りるなら、「自分の通り道にあったもの(たまたま目の前を通り過ぎた本)だけをなんとなく読む」というくらいの、ほんのちょっとの努力では、何の役にも立たないんだよ。
当たり前の普通のことを言うようだけど、いろんな作品を読むうちに、それらが読む人の心(人格)の中でしっかりと結びついて、やがて「文学全体」がどういうものなのかが自分なりに納得できて、満足できなければいけないんだ。つまり、ただスポーツの試合に勝つ(ただ流行の本を読んで楽しむ)だけではなく、その美しいルールや型(フォルム)が、自分にとって「これしかない!」と心から納得できるものを、最後まで探し求めなきゃいけないんだよね。
目をつぶってあちこちを撫でられただけのゾウは、ただの歪んだ形のゾウでしかなくて、一つのまとまった生き物には見えないよね。それと同じで、全体のつながりから切り離されて、一部分だけを切り取られた自然(材料)は、本当の作品――つまり「人間」が心を込めて作ったもの――ではなくて、ただ機械的に組み立てただけの作業にすぎないんだ。
日本の文学にしても、外国の文学にしても、そのお話全体の「流れ」をじっと見つめること、最初から最後まで「どうやって続いているか」をしっかり見届けること、そして、作品の「美しい形(フォルム)」とは何かという考え(理念)を、自分の中でじっくり育てていくこと。これこそが、今のぼくたちにとって、何よりも急いでやらなきゃいけないことなんだ。
とにかく、この「美しい形(フォルム)」についての考えが生まれない限り、いつまでも「しろうと(アマチュア)」のままだよ。それに、アマチュアとしてさえ、文学という芸術を本当に楽しんでいるわけじゃないんだ。「新しいことを知ってうれしいな」という、ただのお勉強の喜びを、たまたま文学を通じても味わっているだけなんだということを、ちゃんと思い知らなきゃいけないよ。
もちろん、ぼくは「いつでも絶対に、頭から足の先までのぜんぶの姿(全身像)を作らなきゃダメだ」と言っているわけじゃないんだ。頭や手足のない彫刻(トルソ)でもいいし、手だけの作品でもいい。だけど、もしトルソを作るなら、それだけで「これで一つの完成された世界なんだ」という、まとまった感じ(全一的な感じ)を相手に与えるものでなきゃいけない、と言っているんだよ。
最初から最後まで一つの命としてつながっている様子(持続ぶり)を見せてくれない限り、そこに本当の「姿」があるとは言えない。ということは、それは歴史の中にずっと残っていくもの(歴史に参加するもの)にはなれないんだ。
はっきり言えば、それは「作品」とは呼べないんだよ。
芸術というのは、食べていくための道具ではなくて、言ってみれば、ぼくたちの人生に「生きる楽しさや、もっと素晴らしい価値」を新しくプラスしてくれるものんだ。つまり、新しく生み出すこと(創造)だからこそ、作品がそれだけでちゃんと「生きている姿」を持っていることが、何よりも絶対に欠かせないことなんだよ。
もしそうでなければ、それはただの「個人の日記(メモ書き)」であって、それ以上のものにはなり得ないんだ。
もちろん、日記の形を使って書かれた素晴らしい作品もあるけれど、それはまた別のお話だよ。
作品がちゃんとした「生きた姿」を持つためには、何かを書き始める前に、「これから書く作品は、全体としてこんな素晴らしいものになるぞ」という全体の見取り図(予想)が、頭の中でハッキリと見えていなければいけないんだ。
これは、ただの材料やデータをあらかじめ調べておくこと(予考)とは違うんだ。今言った「全体の見取り図(予想)」は、ハッキリしていればいるほど、言葉ではうまく説明できないものかもしれない。だけど、言葉で言えないからこそ、お話(作品)という形にして表す必要があるんだよね。この見取り図が心の中にしっかりと刻み込まれていないなら、たとえなんとなく読めるものが出来上がったとしても、書いた本人は心から満足できないし、誰かに「どうぞ読んでください」とプレゼントすることもできないはずなんだ。
この「全体の見取り図」こそが、作品に美しい形を与えてくれるし、なにより作品に「生きている姿」をプレゼントしてくれるものなんだよ。
だけど、今のほとんどの作家たちは、この「全体の見取り図」がぼんやりと薄れてしまっているんだ。これはきっと、描くべき「人間の本当の姿(人間像)」を見失ってしまっているからだね。つまり、心から「おもしろい!」と自然に湧き上がってくる楽しさが、バラバラに消えてしまっているんだよ。そして、「とにかく書くぞ!」というがんばる気持ち(意志)だけが空回りして、あわててオロオロしている(周章狼狽している)結果なんだろうね。
なるほど、それも「今の時代のせい」なのかもしれない。だけど、もし本当に時代のせいだと言うのなら、いっそのこと、今は芸術作品を作るのをやめてしまうほうが自然だし、当たり前のことだよね。
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