初級翻訳・撫でられた象 第3話

中原 中也

だって、芸術というものは、「がんばって作ろう!」と無理に力むことではなく、心の底から「作りたい! 作らされている!」という強い気持ちが自然に湧き上がってくるものでなければならないからなんだ。

だけど、現実のところは、そんなに簡単に割り切れる話ではないんだよね。

ぼくたちの心の中から、「美しいものを作りたい!」という芸術への強い願い(芸術的欲求)が、すっかり枯れて消えてしまったわけではないからなんだ。だから、ここでみんなに「じゃあ、具体的にどうすればいいの?」という、本当に役に立つお話をするとしたら、やるべきことはたった一つ。昔の素晴らしいクリエイターたちが残してくれた作品に、もう一度じっくりと、心から仲良くなることなんだ。

そうして、その作品がどんな様子で書かれているか、どんな「美しい形(フォルム)」をしているかというところまで、しっかりと目を向けられるようにならなきゃいけないんだよ。

つまり、「文学やアートって、本当はこういうものなんだ!」という強い考えが、自分の心の一番深いところに、しっかりと出来上がっていなきゃダメなんだ。

その考えが心の中にちゃんと出来上がるまでは、どんなにがんばって何かを書いたとしても、それはただ、子どもが自由に描いたお絵描き(落書き)のようなものにすぎないんだよ。

作品の「美しい形」を自分で意識していないものは、ただ「書きっぱなし」にしているだけなんだよね。

その「書きっぱなし」のものが、たまたまちょっと面白いからといって、みんなに買ってもらえたとしても、それは書いた本人にとっても、それを買った世の中の人にとっても、なんだかとても中身がなくて、かっこ悪いことなんだよ。

ぼくたちの人生に、新しく素晴らしい価値をプラスしてくれるはずの芸術が、そんな中身のないものになってしまうくらいなら、誰も頼んでいないのに、わざわざそんなものを作らなくていいはずだし、もしそんな気持ちで作るのだとしたら、それはすごく図々しいことだよね。

「とにかく書くぞ!」という気持ちだけで無理やり作ったものは、それができたその瞬間だけは、熱を出したみたいに一時的に嬉しくなるかもしれない。だけど、そこには何の意味もないし、本当の意味で誰かを喜ばせることもできないんだ。

そういう「熱を出したような、一時的なお話」ばかりが世の中に溢れているから、今の文学は「自分も作家になりたい!」と思っている人たちだけが読んでお互いに褒め合っているような、なんとも情けない状態になってしまっているんだよ。

何度でも繰り返し言うけれど、この「作品の美しい形(フォルム)」についてのしっかりとした考えが心にないことこそが、今の作家たちを迷わせて、不安にさせてしまっている一番の原因だと、ぼくは思うんだ。

(1935年10月)

コメント

タイトルとURLをコピーしました