初級翻訳・海からきた卵 第1話

塚原 健二郎

一

 ミル爺さんは、貧しい船乗りでした。
若い頃から世界中の海を旅してきたので、今ではたいていの国のことは知っていました。
ところが、ただ一つだけ、日本という国を知らなかったのです。
いつもインドを通って中国へやってくる爺さんの船は、上海で荷物を積み下ろすと、そこから故郷のフランスへ帰ってしまうからでした。
「日本へ行ってみたいなあ。
そうしたら、もう船乗りを引退してもいいんだが……」
 爺さんは長い間、海の向こうにある「桜が咲く小さな島国」を、美しい絵のように心に浮かべては、そうつぶやいていました。
そんな爺さんが、ある日、船長から「今度の航海では日本まで行くことになったぞ」と聞かされたときの喜びようといったらありませんでした。
「セルゲイ、おじいさんはね、日本へ行くことになったんだよ、日本へ!
おまえには、何をおみやげに買ってきてやろうか」
 爺さんはその晩、家に帰ると、孫のセルゲイを捕まえて、まるで酔っぱらいのように何度も何度も繰り返すのでした。
「ぼく、大将が着ている赤い鎧がほしいな。兜(かぶと)に竜がついているやつ!」
 セルゲイは言いました。いつか絵本で、日本の大将が、飾りのついた兜と、赤い紐で編み上げた鎧を身につけて、戦場へ向かう勇ましい姿を見たことがあったからです。
「よし、よし、わかったぞ」
 爺さんはにこにこしながら答えました。ミル爺さんは、船が長い波の上を走っている間も、毎日のように甲板を掃除しながら、日本の港に着いた時のことを考えては胸をわくわくさせていました。
やがて爺さんの船は、インド、中国を過ぎて、ようやく日本に到着しました。
船が神戸や横浜の港に停まっている間、爺さんは珍しい日本の町を見物しようと、背の高い体を少し前かがみにして、せっせと歩き回りました。
そして大きなデパートで、首が動く張り子の虎だとか、くちばしで鐘をたたく山雀(ヤマガラ)の人形だとか、いろんな珍しいものを買い集めて、持っていたお給金をほとんど使い果たしてしまいました。
そんなある日、船が出発する前の日のこと。骨董屋(こっとうや)の店先で、セルゲイが欲しがっていたものにそっくりな、竜の飾りがついた兜と赤い鎧を見つけ出しました。
「おっ、これはセルゲイが欲しがっていた鎧だ! よしよし、これを買って帰ってやろう」
 爺さんはさっそく店に入り、船の中で習い始めたばかりのつたない日本語で尋ねました。
「これ、いくらですか」
「百五十円です」
 骨董屋の主人は、爺さんの古びた服をじろりと見て、ぶっきらぼうに答えました。
百五十円と聞いて爺さんはがっかりしましたが、念のため「少し、高いです」と、言葉を一生懸命つなぎました。
「それなら、いくらならいいんですか?」
 そこで爺さんは、もうほとんど中身の残っていない財布を調べました。中には十円札が二枚入っているだけです。
「二十円に……」
 爺さんは懸命に頼みました。しかし主人は、値段があまりに違うので腹を立てたのか、黙って首を振りました。
それを見ると爺さんは、もう諦めたように悲しそうな顔をして、何度もその立派な鎧を振り返りながら、暗くなりかけた通りへ出て行こうとしました。
すると後ろから、骨董屋の主人が「もしもし!」と呼び止めました。
主人は、爺さんが鎧をあまりに名残惜しそうに見ていたので、気の毒に思ったのでしょう。棚の上から、その鎧とそっくりな姿をした一尺(約三十センチ)ほどの武者人形を下ろしてきて、「これならお安くしますよ」と言いました。
爺さんはその人形を眺めて、「なるほど、これはいい」と思いました。これならセルゲイも喜ぶだろうし、何より船の中に持ち込むのに小さくて、こんなに楽なことはありません。
まもなく爺さんは、四角い桐の箱に入った武者人形を抱えて、港の方へ帰っていきました。
そして、とても満足そうにこうつぶやきました。
「やれやれ、ようやくセルゲイとの約束を果たせたぞ。わしはもう日本も見たし、今度国へ帰ったら、これで船乗りはやめにしよう」

二

 ミル爺さんの船がインドのある港へ着いたのは、それから十五日後のことでした。
爺さんが波止場に近い酒場で、お気に入りの椰子酒(ヤシざけ)を飲んでいると、そこへ船長が入ってきました。
「爺さん、出帆は今夜の十時だ。早く帰って準備をしておいてくれ」
 船長が言いました。
「船長さん、今夜はきっとひどい嵐が来ますよ。さっき灯台のまわりに鳥がたくさん飛んでいましたからね」
 爺さんは長年船に乗っているので、夕方に灯台のまわりで鳥が騒いだり、犬の毛が湿っぽくなっていたりすると、必ず嵐が来るということをよく知っていました。
「なに、大丈夫だ。外に出て見てみろ。星がこんなにたくさん出ているじゃないか」
 船長は平気な顔をしていました。その夜、出航したミル爺さんの船は、インド洋の真ん中で嵐に見舞われ、いつの間にか航路を外れて、暗礁に乗り上げてしまいました。
「ボートを下ろせ、ボートを下ろせ!」
船長は叫び立てました。
かわいそうにミル爺さんは、せっかく日本から買ってきた山雀の人形も、張り子の虎も捨てて、みんなと一緒にボートに乗り移りましたが、それでもセルゲイとの約束の武者人形だけはしっかりと抱えていたのです。
次の朝、ミル爺さんが気がついてみると、海の真ん中にある大きな岩の上に倒れていました。
そばにいるのは、日頃から仲の良いコックのジムです。
「ミル爺さん、気がついたかね?」
「おやジムさん、一体全体どうしたんだね、わしは。ボートが恐ろしく高い波の上に放り投げられたのは知っているが、それからあとは夢のようだよ」
ミル爺さんは、本当にまだ夢の続きではないかと、穴が開くほどジムの顔を見つめました。
「あのときボートがひっくり返ったのさ。そこでお前さんを抱えて、わしはやっとここまで泳いできたんだよ。のんきだな、ミル爺さんは」
ジムは笑い出しました。
爺さんは、初めて親切なジムのおかげで命拾いをしたのだと知ると、嬉しくて涙がぼろぼろこぼれました。
それにしても船の人たちはどうしただろうかと、遠い沖の方を見ると、船はもうすっかり波に沈んで、帆柱だけが青い海の上に突き出ています。
せっかく爺さんが日本から買ってきた山雀も、武者人形も、みんなきれいに海の底へ沈んでしまったのです。
それでも爺さんは、海に沈んだ船長さんをはじめ、大勢の仲間たちのことを考えると、武者人形ぐらいなんでもないことだと思いました。
ミル爺さんとジムは、まずはお日様で着物を乾かしながら、どうにかして沖を通る船を見つけたいものだと話し合いました。
それからお腹が空いて仕方がありませんでしたから、岩の上をあちらこちらと食べ物を探して歩きました。
ですが、昼頃までかかって、やっと蟹を二匹捕まえただけです。
二人が岩の一番高いところに腰掛けて、岩の角に蟹の甲羅を打ちつけては、少しずつ中身を食べていると、ふいに足元の岩の穴の中から、バタバタと二、三羽の小鳥が飛び出しました。
「やあジム、小鳥の巣があるぞ!」
ミル爺さんは叫び出しました。
「そうだ、きっと中に卵があるよ。どれ」
ジムは蟹の足をくわえたまま、いきなり穴の中に手を突っ込みました。

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