初級翻訳・火星兵団 第44話

海野 十三

蟻田博士がひどく感心した顔で、
(これはたいしたものだ!)
と言った、長さ1メートル余りの鞭のようなものは、一体何であったのだろうか。
それを箱から出して博士の目の前へ押しやった大江山課長は、博士のまばたき一つさえ見逃すまいと、じっと見つめているのだった。
「いかがです、博士。これなら博士を引き止めた値打ちはあったでしょう」
博士は「ふんふん」と適当な返事をしながら、その青い鞭のようなものをしきりにひっくり返して見ていた。やがて博士は、その一方の端が少し太くなっているところに指先をあてて、押したり離したりしはじめた。
すると、どうした拍子か、その青い鞭のようなものが、ほんのわずかではあったけれど、まるで半殺しの蛇のようにぴくぴくと動いた。
そして先端がくるりと円い輪になった。
「ほう、こいつは大発見だ!」
博士は熱心を顔にあらわし、なおもさかんに指先でいじりまわしたが、一度蛇のように動いた後は、二度とそんなふうには動かなくなってしまった。
大江山課長は、さっきから博士の邪魔をしてはいけないと思い、じっと控えめにしていたが、もう我慢ができなくなって、
「博士、その珍品は一体、何に使うものだかおわかりですか」
と、せき込んで尋ねた。しかし博士は無言で、首を左右に振るばかりだった。
「博士、なぜ教えてくださらないのですか。
博士なら、おわかりになっているはずだと思うのですが……」
大江山課長の言葉に、博士ははじめてその鞭のようなものから目を上げ、
「わしにも、さっぱりわからないのだ。
わしはこれを研究してみたいと思う。
どうだろう、これをもらって行っていいかね」
「いえ、それはだめです。
持って行ってはいけません」
大江山課長は、博士の手からその青い鞭のようなものを奪うようにして受け取り、すぐさま箱の中に入れてしまった。
博士は、気の毒なくらいがっかりして、
「たった一日でいいが、貸してくれんか」
「いや、だめです」
「じゃあ、もう十分か二十分か見せてくれんか」
「だめです。
お断りします」
「そんなら、ぜいたくは言わない。
もう五分間見せてくれ」
課長は博士の頼みをあくまでもしりぞけた。
そして箱にふたをしてしまったけれど、その箱を元の金庫にしまうことはしなかった。
「ねえ、博士」
博士は箱をじっと見つめ、よだれをたらさんばかりであった。返事もしない。
「ねえ、博士。
さっきあなたは国際放送をお聞きでしたか。
地球がモロー彗星に衝突するという……」
課長のこの出し抜けな質問は、博士を驚かせるのに十分であった。
「なに、地球がモロー彗星に? そんなことは、わしには前からわかっていたが、誰がそんなことを君の耳に入れたのか」
「国際放送ですよ。
ロンドンとベルリンとからです。
どっちもりっぱな天文学者が放送しました」
「ふうん、そうか。
あいつらもやっと気がついたとみえるのう。
それで、わが日本では、誰が放送したのかね」
「まだ誰も放送していません」
「なぜ放送しないのかね。
号外は出たのかね」
「いや、どっちも今、報道禁止にしてあります。
そんなことを知らせては、どんな騒ぎが起きるか、大変ですからね」
課長は、本当に心配そうな顔をしてそう言った。
「そんなことは、一刻も早く全国の人々に知らせるのがいい。
隠しておくのはかえってよくない」
地球とモロー彗星がやがて衝突するであろうというニュースを、博士はすぐさま人々に知らせよと言う。
「もちろん、いずれ知らせますが、その前に我々は、十分責任のある用意をしておかなければなりません」
と、大江山課長は言う。
「責任のある用意とは?」
「それはつまり、その恐るべきニュースを聞いて暴れ出す奴が出たら、すぐ捕まえて縛り上げる用意をすることです」
「そんなつまらんことを心配するには及ばないだろう。
もっと大事な……」
「そうです。
我々はそれも考えています。
第二の用意は、その衝突が果たして本当に起きることかどうか、それを確かめなければなりません」
「よくよくばかばかしいことを考えたもんだ。
それよりも、もっと……」
「まあ、お待ちなさい。
我々の第三の用意は、もし本当に衝突が起きるものとすれば、何とかして衝突しないで済む方法はないかと、それを研究すること」
「泥棒を捕らえて縄をなうというのはこのことだ。
ばかばかしい」
「いや、我々はすべてのことに手落ちがあってはならないのです。
第四の用意としては……」
「第四の用意? ずいぶんたくさんの用意をするのだねえ」
「そうです。
第四の用意は、もし衝突が起きても、我々日本人だけを死なさずに何とか助ける方法はないものかどうか」
「雲をつかむよりむずかしい話だ」
「第五の用意は……」
「わしはもうたくさんだ。
ばかばかしくて黙って聞いていられんよ」
蟻田博士は、大江山課長の言うことを一々だめだとやっつけた。
だが博士は、帰る帰る言いながらなかなか帰らず、課長の机の前でモジモジしていた。
「課長。
総監がお呼びです」
一人の警官が、大江山課長を呼びに来た。
課長はうなずくと、そそくさと自分の席を立って向こうへ行った。
その課長の姿は衝立の後ろへ消えたが、そこで彼は足を止めた。課長を呼びに来た警官も、また、そこで足を止めて、課長の顔を面白そうにのぞき込んだ。
「課長。あの頑固なおじいさんの写真を隠し撮りするんですか?」
「いや、今日のはそういうのとは違うんだ」
大江山課長は、普段からよく自分の席を立ち、あとに残った机の前の客に、気づかれないようこっそり写真を撮らせることがあった。つまり、そのとき訪ねてきた相手の顔を、あとからしっかり記録に残しておく必要があるときによく使う手口だった。
警官は、またいつもの写真撮影の一幕だと思ったのだ。
しかし課長は、衝立の陰から自分の席の方をじっと見つめている。
そのとき、警官が課長の耳に口を近づけて、早口でささやいた。
「あっ、課長! あの老人が変なことをしていますよ。放っておいていいんですか?」
「ああ、いいんだよ」
「あっ、課長の机の上にある箱から、何か長いものを引っ張り出しましたよ! 大丈夫なんですか?」
「うん、それでいいんだ」
いいんだ、いいんだと言い合っているうちに、蟻田博士のからだは課長の机から離れていた。
そして、部屋の出口のほうへ、早足ですたすたと歩いていく。
どうやら、博士はそのまま逃げ出すつもりのようだ。
「本当にいいんですか、課長! あの老人は食えない奴ですよ。あなたの机の上から何か盗んでいきましたが、見逃していいんですかしら」

蟻田博士は、まんまと青い鞭のようなものを、大江山課長の机の上から盗み出してしまったのだった。
それは、課長が千葉の天狗岩の近くから拾ってきた、この上なく貴重な証拠品だったのだ。
しかし不思議なことに、課長は博士がそれを盗むところを目の前で見ながら、何もせずに見送っていた。
まるで、わざわざ博士にそれを盗ませてやったかのようだった。
一体どういうことなのだろうか。
すでに博士の姿は部屋の中にはなかった。

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