初級翻訳・亡びゆく森 第2話

亡びゆく森

自然界にも、恐ろしいほどの大きな革命がやって来たのです。森林という大昔からの手つかずの大自然は、これまではこの山王山を取り囲む外側の壁となって、下町から飛んでくるほこりや汚れを防いでくれていました。激しい生存競争から生まれる荒々しい唸り声も、この森の厚い壁にぶつかると、なす術もなく跳ね返されていたのです。
しかし、人間の生活というエネルギーに満ちた強い低気圧は、森の中を目指して、わき目も振らずに突進してきます。森の壁を一枚隔てたその内側には、静かなお寺があり、お墓があり、孤児院や救護所があり、赤い旗を掲げた、山桜の美しく咲くお稲荷さんがあります。ですがその外側には、工場があって煙突から煙を吐き出し、自動車が臭いガスをまき散らして時には人をひき倒し、振り返りもしずに走り去っていくのです。芝居小屋があって、遊郭があって、待合があって、料理屋があって、そこには人間のさまざまな「悪の華」が咲き誇っています。森はまさに、動きに満ちた人間の生活と、静かな自然の生活をきっちりと仕切る壁だったのです。

私がこの山王山を知ってからというもの、皆それぞれ人生に行き詰まった人たちなのでしょう、この森の中で、首を吊って亡くなった人が二人ほどいました。人の目を避けるのには都合がよいとは言うものの、不思議なことに、死のうとする人はなぜか原始的で安らかな自然の場所を選ぶものです。川や海に身を投げる人と、森の中で首を吊る人とが、それぞれに。
今となって思えば、新雪に輝く富士山がよく見えないからと言って、でしゃばってきた杉の木立の梢を恨んだりしたのは、なんだかもったいないことをしたような気がします。

私は毎朝起きると、二階の窓の戸を一枚か二枚開けて、向こう側の森を眺めます。カシの木は少し黄色みがかった薄赤い葉をつけて、枝をまるで傘のように丸く広げています。杉の鮮やかな新しい芽は、去年からそこにある黒ずんだ葉の上に、まるで青い宝石の粒を吐き出しているかのようで、腕っぷしが強そうな、こぶだらけの黒松が五、六本ほど並んで生えているものの、その木と木の間はすっかりがらんとしていて、本来なら森にあるべきはずの豊かな茂みがまるでありません。
そして、その開いてしまった空き地や、新しく平らにならされた土の上には、トタン屋根の建物や、軒先の灯り、白木の門などが次々と建てられ、今までまるで真鍮の鋲(びょう)を打ち込んだかのようにくっきりと輝いていた星の光もなんだかぼんやりと鈍くなり、代わりに電気が明るくこうこうと照りつけるようになったのです。

どこを見ても家ばかり、人間ばかり、電線ばかり、塀ばかり、門ばかりで、私の頭はまるで硬い盾で押さえつけられるような強いプレッシャーを感じています。二階の書斎には、こうした刺々しい空気を少しでも和らげようというつもりで、友人が描いてくれた青々とした信州の高原の花野や、木曽の渓谷、そして日本アルプスの万年雪などの水彩画をずらりと掛け並べてあります。自分で作った少し粗削りな本棚には、ラスキンの論文集、ツルゲーネフの小説、それから森林生活を愛した聖なる老人ソローの全集、コンラッドの海の物語集、ラルフ・コンノルの『スカイ・パイロット』といった本まで山のように積み上げて、この酸素の薄い窒素だらけの空気の中から、どうにかして酸性に満ちた自然の呼吸を吸おうともがいていたのでした。

前の晩に遅く帰ってきた、その翌日の朝のことでした。目を覚ましていつものように二階から森を眺めると、なんだか急に肌寒くなり、まるで部屋の壁板にぎゅっと押しつけられるような息苦しさを覚えました。風情のよかったカシの木が無残に切り倒され、赤みを帯びた瑞々しい葉っぱはどこにも見当たらず、森はまるで前歯をすっかり抜かれたかのようにぽっかりと穴が開いたようになっていました。そして、灰色の空が、まるで味気のない白いペンキ塗りの壁のように、間の抜けた顔をしてぼんやりと立っているのです。
私の目には、ショックでめまいがするような現実が映っていました。もう残っているのは、見る影もない松や杉が五、六本あるばかりです。その最後まで踏みとどまっていた戦士たちも、きっとあっという間に、あのちりあたりのようになってしまうことでしょう。遠い太古の昔には、森林のほうが人間を恐れさせていたのに、今やその復讐のメロディーが巡り巡ってこちらにやってくると同時に、私の生活を大昔の大自然へとつないでいた大切な絆も、ズタズタに引きちぎられてしまったのです。人々の心の温かさが完全に凍りつく「氷点」が近づいてきているのだと感じました。あの模様すらない味気ない白壁のような空を見るためだけに、私たちはこの美しい森林を犠牲にしなければならなかったのでしょうか。
私はまるで、目を隠していた革の覆いを取り去られたときの、馬の激しい怯えのような恐怖を感じました。森と私の大切な心の交流を邪魔しようとするのは、目に見えないずる賢い侵入者たちです。その胸ぐらをつかみ合って、家の外に力いっぱい突き出してやらなければ気が済まないほど、むしゃくしゃと腹が立って仕方がありませんでした。私は二階の狭い縁側に立ち上がりながら、向こうの世界をにらみつけ、まるで体操でもするかのような勢いで、何もない空に向かってこぶしを二、三度突き出してみたのでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました