シーンと静まり返ったまわりの空気と、針のようにピリピリと張り詰めていた彼の神経には、その音が何倍にも大きく響き渡りました。
黒吉の心臓は、その瞬間、ドクン!と大きな音を立てて止まってしまったかのようでした。
「うぅ……」
あわてて顔を上げた彼の目の前で、葉ちゃんは、何か怖い夢でも見たのでしょうか、のどを小さく鳴らすと、ゴロンと寝返りを打って、反対側を向いてしまいました。
「目を覚ましちゃったかな!?」
黒吉は、ぎゅっと息を止めるように深く吸い込みながら、暗闇に浮かぶ、まるで墨のように黒い葉ちゃんの背中を、じっと見守りました。
「いや、大丈夫そうだ……」
寝返りを打った葉ちゃんは、幸いなことに目を覚まさなかったようで、すぐにまた、スースーとかすかな寝息が聞こえてきました。
彼は、ようやく胸をなでおろして、はぁーっと熱い息を吐き出すと、自分の唇をそっと指で触りながら、青暗い部屋のまわりをぼんやりと見回すのでした……。
……次の日は、ゆうべの激しい嵐がウソのように、どこまでも青く澄み渡った、美しい大空が広がっていました。黒吉は、昨日の夜の不思議な出来事を、一人で何度も思い出してニヤニヤしようと、小屋の丸太をよじ登っていきました。
一番上まで登って、ひょっこりと顔を出したその瞬間、目に飛び込んできたのは、ちょうど目の前にある、朝露を浴びてキラキラと輝いている美しい森の景色でした。
(本当にきれいだなあ……。でも――)
黒吉の頭をふっとよぎったのは、やっぱり「葉ちゃん」のことでした。
その瞬間、この少年には、目の前の森よりも、葉ちゃんの方がずっと生き生きとしていて、何倍も美しく感じられたのです。
(森なんかより、ずっと……)
心の中でそうつぶやいた、まさにそのときでした。耳のすぐ近くで突然声をかけられて、丸太をギュッとつかんでいた黒吉の腕が、ビクッと震えました。それまで、誰かに話しかけられて良いことなんて、ほとんど一度もなかったからです。
「森なんか、どうしたの? 黒ちゃん」
黒吉は、びっくりして言葉が出ませんでした。
いつやって来たのでしょうか、目の前には、あの葉ちゃんがちょこんと立っているのです。
それに、これまでの人生で「黒ちゃん」なんて、そんなに優しく名前を呼ばれたことなんて、誰からも一度だってなかったのですから……。
「ねえ、何を考えているの?」
葉ちゃんは、ぽかぽかとした暖かいお日様の中で、とても可愛らしくニコニコと笑っていました。
「あ、ううん、森を見ていたんだ」
黒吉は、恥ずかしくて彼女の顔をまっすぐ見ることができませんでした。
そして、もじもじと足先を動かしながら、ぶっきらぼうにそう答えました。
「まあ、森を見ていたの? あなたって、なんだか詩人みたいね!」
この可愛らしくて、ちょっと大人びた女の子は、一体どこで覚えたのか、そんなおしゃまな言葉を口にしました。
黒吉は、なんて言い返していいのか思いつきませんでした。
「本当にきれいな森ね。黒ちゃんは森が好きなの? きれいだから――」
「ううん、森なんか嫌いだよ。……君の方が、ずっときれいだよ」
「まあっ――」
葉ちゃんは、いかにも女の子らしく嬉しそうに、大きな目をパッと輝かせました。
「だけど……僕は顔がみにくいからなあ……。それでも、僕と遊んでくれる?」
彼は、少しずつ緊張がほぐれて、おしゃべりができるようになってきました。
「遊ぶに決まってるじゃない!」(葉ちゃんは、時々ちょっと男の子みたいな元気な話し方をしました)
「私、黒ちゃんはおとなしくて優しいから好きよ。だって、ゆうべだって……」
「えっ!? 知ってたの……!?」
黒吉は、心臓が飛び出るほどびっくりして、思わず体がビクッと跳ね上がりました。
「そんなに驚かなくたって、いいじゃない。私だって、キスしたのは初めてなんだから」
黒吉は、顔がカーッと一気に赤くなって、火をふくように熱くなるのを感じました。
それと同時に、まだ十歳くらいの小さな女の子が、こんなことを恥ずかしがりもせず、ハキハキと言うなんて、この可愛い姿の中に、もしかしてイタズラな悪魔が住んでいるんじゃないか、とさえ思えてきました。
いくら、サーカス団という荒れ果てた、ガサツな環境の中で育ったからといっても、これは彼にとって、とてもドキドキする恐ろしいことでした。
「い、いつここへ来たの?」
彼は、どう返事をしていいか分からなくなって、あわてて話題を変えました。
「あなたが丸太を登っていくのが見えたから、すぐ後を追いかけてきたのよ」
「僕に、何か用事でもあったの?」
「ううん、用事なんか特にないわ。……あなたって、本当に不思議な人ね。私のことが嫌いなの? もし嫌いなら、どうしてあんなことしたのよ?」
「違うよ、違うんだ! 僕は葉ちゃんのことが大好きなんだよ。……だけど、なんだか上手くおしゃべりできなくて……」
これは、黒吉の嘘偽りのない、本当の気持ちでした。
「まあ、いいわ。ここに座りましょう」
葉ちゃんは、黒吉のとなりのスペースを空けると、二人は並んで、屋根を組み立てるための丸太の上に、ちょこんと腰をかけました。
もし遠くから誰かが見たら、サーカス団の子供たちが仲良く日向ぼっこをしているようにしか見えなかったでしょう。
「ゆうべのこと、私はちゃんと気づいていたのよ」
葉ちゃんは、なぜだかその話をあきらめずに、しつこく続けました。
「じゃあ、どうして眠ったふりをしていたの?」
「だって……。あの虫みたいな(あっ、ごめんなさい! みんながあなたのことをそう呼ぶのよ。いつも部屋の隅っこで小さくなっているから……)。でもね、私、あなたのことが好きになっちゃったの」
黒吉は、大好きな彼女の口から「虫」という嫌なあだ名を聞かされて、まるで苦い薬を飲まされたような気持ちになり、がっかりして黙り込んでしまいました。
「だから、いいことを教えてあげるわ」
葉ちゃんはそう言うと、ぶらりと垂らした足を、前後にぶらぶらと揺らし始めました。
足を揺らすたびに、葉ちゃんの柔らかくて丸みのある肩が、少し緊張してガチガチになっている黒吉の体に、ポン、ポンと触れました。
彼はその柔らかい感触に、胸の奥がモゾモゾとするような、不思議なドキドキを感じました。そして、さっきのゆうべの夢のような記憶が、リアルに生き生きとよみがえってくるのを感じたのです。
すると、さっきの「虫」と言われて苦しかった気持ちは、どこかへふわっと消えていきました。
「いいことって、何?」
葉ちゃんは、それでも足をぶらぶらと揺らし続けました。
ときには、わざとやっているのかな?と思うほど、お互いの体が強くぶつかり合うこともありました。
そのたびに、黒吉の緊張していた心は、氷が溶けるように、静かにほぐれていくのでした。
「いいことっていうのはね、あなた、芸が下手なままじゃ絶対にダメよ。親方には嫌われちゃうし、みんなからはバカにされちゃうんだから」
葉ちゃんは、まるで頼りになるお姉さんのような口調で言いました。
「うん……」
「だから、私、すごくいい話を聞いたの。
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