それでも、お父さんはやっと納得してくれましたし、大森のお宅でも当分置いていただけるように言ってくださっていますし――今夜この手紙を出したら、弟はさぞや大喜びすることでしょう」
主人は温かいご飯でお腹もいっぱいになり、すっかりご機嫌でした。
Aさんと弟の間の、なんとも微笑ましくすれ違うエピソードを聞いて、胸のあたりに生き生きとした温かいものがこみ上げてきました。
けれど、昼間たっぷり仕事をしたあととあって、彼はもっとこう、ゆっくり休めるような気楽な気晴らしが欲しくなりました。
「夕刊は来ていないのかな?」
テーブルの端に足を投げ出しながら、主人はふと思い出してそう言いました。
「はい。見てまいりますね」
食器を集めていたAさんは、テキパキと台所へ出ていきました。
そして、戸外の暗闇の中から、郵便箱をまさぐる音が聞こえてきました。
「届いておりますよ。――あら? X新聞が一緒に混ざって入っていますわ」
「他の家と間違えたのかな?」
こうして、冬の終わりを告げる平穏無事な家庭の、まさにその時刻にぴったりの、夕刊のページをめくる音が部屋に響いたのです。
二
ところが翌朝、まだ朝露の降りている郵便箱を主人が開けてみると、一番手前にスーッと入っていたのは、やはりあのX新聞でした。
夕方もまた同じです。そして翌朝も、その次の日の夕方も、まったくその通りでした。
「こりゃ、ただの間違いってわけでもなさそうだな」
主人は異変に気づいて言いました。
「押し売りかもしれないわね。ねえ、Aさん」
「そうかもしれません。最近こういう悪質な商法が流行っているって聞きますから」
Aさんは、留守がちな女世帯の玄関などに、いくら断っても新聞をしつこく投げ込んでいく手口がある話を二人に聞かせました。
知人の家でも、まさにそれをやられたことがあるそうです。
「では、今のうちに一枚、貼り紙でもしておこうか」
その夕方から、「X新聞お断り」と、洋画家らしいしゃれた文字で書かれた貼り紙が、閑静な家の門の板戸に貼られることになりました。
しかし、翌日の朝になると、断ったはずのX新聞がまたしても勤勉に、郵便箱の中にちゃっかりと納まっているのです。
調べてみると、貼ったはずの貼り紙は影も形もありません。
そこで、主人は再び同じ文面を貼りつけました。
すると翌朝にはまた、それが綺麗にめくり取られており、X新聞は「お早う!」とばかりに威勢よく届いているのです。
主人は、以前Aさんが言っていた注意を思い出しました。
今度はこっちも意地になって、菓子折の厚紙を使って、「X新聞 固く御断り申候」と油絵の具で力強く書き上げ、それを木製の門にしっかりと釘で打ちつけました。
しかし、夜が明けてみれば、X新聞は相変わらず朝まだきの郵便箱を訪れているし、木製の札は無残にも引き剥がされ、釘は簡単に曲げられ、板塀には痛々しい穴が開いていたのです。
主人はすっかりカッとなって、頭に血が上りました。
「いったい、何者なんだ……!」
彼は心の中でそう歯ぎしりをしました。
頑固で融通の利かない老人なのか、それとも悪ふざけの好きな不良学生なのか。
彼は、相手の正体がまったく見えないことに対して、言い知れない気味の悪さを感じました。
「向こうもすっかり意地になっているんだから、断り書きなんて何の効き目もないわよ。いっそ完全に放っておいたら、向こうがつまらなくなってやめるんじゃないかしら」
奥さんが真っ先に白旗を上げました。
内心カンカンに怒っていた主人も、妻のその意見に同意するより仕方がありませんでした。
向こうは新聞を配ることが仕事(商売)で、こちらはそれを防衛することは仕事ではないのです。
結局、その日から貼り紙を出すのは中止することになりました。
するとX新聞は、まるで「お互いの交際がようやく認められたぞ」と言わんばかりの態度で、どの新聞よりも熱心に、毎日堂々と配達されてくるのです。
どうにも悔しくてたまりません。
若い洋画家によくありがちなタイプで、痩せ形で神経質な主人は、もともとこのX新聞があまり好きではありませんでした。
それは、妙に刺激的な見出しで人目を引こうとする、いわゆる下世話な小新聞だったからです。
爽やかな写生日和の朝などに、うっかりこのX新聞の紙面を開いたりすると、芸術的な霊感とは正反対の、どす黒くてムッとするような空気が鼻をついてきます。
こんな新聞を、断りきれない悲しさで読まされているような形になっているのは、よくよく考えると実につまらなく、腹立たしいことでした。
主人はしだいに、X新聞を手に取って見ることすらしなくなっていきました。
Aさんもその気持ちを察して、新聞が配達されてきてもそのまま茶の間の戸棚の中に積み上げておくようになりました。
「今度こそ、あの野郎が投げ込みに来る瞬間をうまく捕まえてやろうかな」
「そんなの、到底かないっこありませんわ」
いまだに誰もその正体を見たことがないほどのすばしっこさに、奥さんはむしろ感心し始めている様子でした。だが、主人の方もさすがに、それを忠実に実行するほどの根気はなかった。
三
春がだんだんと近づいてくる。
必要な手紙が二、三度往復されたあと、Aさんの弟は上京して、しばらく大森の家で世話になることになった。
試験の準備にぴったりの先生を探しているところだという。
Aさんは相変わらず一蔵の家でお手伝いを続けていたが、その弟の話が出るたびに、目に見えてイキイキと楽しそうだった。
主人は静物画をどうにか仕上げると、今度は二階から往来を見下ろす、「窓外早春」といった雰囲気の新しい絵に取りかかった。
光の加減からして、それはお昼過ぎの二、三時間がちょうどよかった。
美しい薄日の射す午後になり、彼は夢中になって四時過ぎまで仕事を続けた。
一蔵は絵筆を置き、椅子の上で大きく伸びをすると、窓の外へ向かってタバコの煙をふっと吐き出した。
日はだんだん傾き、外の空気はひんやりとしてきた。
彼は、こののどかな郊外での暮らしが本当に大好きだった。
小さな家の影を長々と引いた原っぱを横切って、犬を連れた牛乳配達の車が、小さく車輪をきしませながら通り過ぎていく。
それを眺めているうちに、彼はふと夕刊の配達のことを思い出した。
「そろそろ来る頃だな」
そう気づいた瞬間、彼は少しソワソワし始めた。
「今日こそ一つ、あの正体を捕まえてやろう!」
そう考えた途端、ちょっとしたイタズラ心が混じった好奇心が、どうしても抑えきれなくなって湧き上がってきた。
一蔵はいつもならすぐに階下に降りるところを、今回は新刊の小説を取り出し、窓際に座って読み始めた。
新しく建ったばかりの借家が、板目の壁に夕日の名残を受けて赤々と照り映えている。
それを囲むように、あちこちの生垣のヒバの木が、地味な浅緑色のかたまりとなってどっしりと落ち着いていた。
この景色の組み合わせこそが、彼が普段から愛してやまない、春の心を感じさせる静かな画材だった。
そして、やがて夕闇がすべてを優しく包み込んでいく――。
景色の爽やかさと雑誌小説の展開の面白さに、すっかりのんびりした気分になっていた主人は、ハッと我に返った。
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