初級翻訳・論語物語 第8話

下村 湖人

「先生、どうか先生の御理想もお聞かせ願えないでしょうか」

孔子は、子路が顔淵に対してさえもその浅はかなプライドを捨てきれていないのを見て、暗澹(あんたん)たる気持ちになりました。
そして、深い同情の目を子路に向けながら答えました。
「わしかい、わしは、お年寄りたちの心を安心させたい、友人たちとは信頼関係をもって付き合いたい、若い人たちには親しまれたい、ただそれだけを願っているのじゃよ」

この言葉を聞いて、子路は、そのあまりにも平凡すぎる内容に、きょとんとしてしまいました。そして、それにくらべると、自分のいったことも満更ではないぞ、と思った。
彼のいらいらした気分は、それですっかり消えてしまった。
これに反して、顔淵のしずかであった顔は、うすく紅潮して来た。
彼は、これまでいく度も、今度こそは孔子の境地に追いつくことが出来たぞ、と思った瞬間に、いつも、するりと身をかわされるような気がしていたが、この時もまたそうであった。
彼は、自分が依然として自分というものに捉われていることに気がついた。
先生は、ただ老者と、朋友と、年少者とのことだけを考えていられる。
それらを基準にして、自分を規制して行こうとされるのが先生の道だ。
自分の善を誇らないとか、自分の労を衒わないとかいう事は、要するに自分を中心にした考え方だ。
しかもそれは頭でひねりまわした理窟ではないか。
自分たちの周囲には、いつも老者と、朋友と、年少者とがいる。
人間は、この現実に対して、ただなすべき事を為して行けばいいのだ。
自分に捉われないところに、誇るも衒うもない。
――彼はそう思って、孔子の前に首をたれた。
孔子は、自分の言葉が、自分の予期以上に顔淵の心に響いたのを見て取って、云い知れぬ悦びを感じた。
けれども、かんじんの子路が、何の得るところもなく、相かわらず浅薄な自負心に災いされているのを見ては、ますます心を暗くせずには居れなかった。
彼はその夜、寝床に入ってからも、子路のためにいろいろと心を砕いた。
子路の舌

子路、子羔をして費の宰たらしむ。
子曰く、夫の人の子を賊うと。
子路曰く、民人あり、社稷あり、何ぞ必ずしも書を読みて、然る後に学びたりと為さんやと。
子曰く、是の故に夫の佞者を悪むと。
――先進篇――

 子路は、季氏に仕えて、一時はかなり幅をきかしていた。
彼は人に頼まれると、例の親分肌を発揮して、よくいろんな人を採用したものだが、子羔を費邑の代官に任命したのも、そのころのことである。
費は、季氏の領内でも難治の邑として知られ、閔子騫などのような優れた人物でも、完全には治めかねたところである。
然るに子羔は、まだ年は若いし、学問は生だし、人物も、性質も悪くはないが、少しのろまだし、どう見てもそんな難治の地方で代官など勤まる柄ではなかった。
この事を知って、誰よりも心配したのは孔子であった。
(子路にも困ったものだ。
向う見ずにもほどがある。
何かとちがって、人事だけは慎重にやってもらわないと、政治の根本が壊れる。
それに、第一本人の子羔が可哀そうだ。
自分では出世をしたつもりで、喜んでいるかも知れないが、恐らく彼の前途もこれで駄目になるだろう。
愚かな者は愚かなりで、ぽつぽつやらせておく方が、却って本人のためになるのだが。
)
 子路は、しかし、孔子が自分を批難していようなどとは夢にも思っていなかった。
彼は、孔子の門人を一人でも多く世に出してやることに、大きな誇りをさえ感じていた。
彼の考えでは、それが孔子の教を拡めるに最も効果の多い方法であり、そして孔子を喜ばす最善の道だったのである。
で、彼はある日、得々として孔子の門を叩き、子羔を採用したことを報告した。
ところが、孔子はただ一語、
「それは人の子を賊うというものじゃ。
」
 と云ったきり、じっと子路の顔を見つめた。
子路は面喰った。
彼はこれまで、門人たちのうちでも、最も多く孔子に叱られて来た一人ではあるが、未だかつて、こんなにだしぬけに、しかも、こんなにぶっきら棒な言葉を以て、あしらわれた覚えがなかった。
彼は、眼をぱちくりさせながら、孔子は何か思いちがいをしているのではないか、と考えた。
で、もう一度彼は、
「このたび、子羔を費邑の代官に登用することが出来ました。
」
 と、出来るだけゆっくり報告した。
「わかっている。
」
 孔子は、眉一つ動かさず、子路を見つめたまま答えた。
子路は、これはいけない、先生は今日はどうかしている、と思った。
しかし、子羔を用いたのが悪かったとは、まだ夢にも思っていなかった。
で、彼は軽く頭を下げながら、
「また一人、同志を官界に出すことが出来ました。
道のために喜ばしく存じます。
」
「人の子を賊うのは道ではない。
」
 孔子の視線は依然として動かなかった。
子路は、この時はじめて、「しまった。
」と思った。
孔子の機嫌を損じている理由に、やっと気がついたのである。
しかし、あっさり自分の過失を謝まることの出来ないのが、彼の悪い癖だった。
それに、第一、彼は、のろまだという定評のある子羔を自分が知らないで用いた、と孔子に思われるのが辛かった。
(自分に人物を見る明がないのではない。
子羔の人となりぐらいは、自分にもよくわかっている。
わかっていて彼を用いたのには、理由があるのだ。)
 そう孔子に思わせたかったのである。
「子羔のためにならないことをした、と仰しゃるのですか。」
 彼はつとめて平気を装いながら訊ねた。
「君はそうは思わないのか。」
 孔子の態度は、あくまでも厳然としている。
「むろん、子羔には少し荷が勝ちすぎとは思っていますが……」
「少しぐらいではない、彼はまだ無学も同然じゃ。」
「ですから、実地について学問をさせたいと思うのです。」
「実地について?」
「そうです、本を読むばかりが学問ではありません。」
 子路は、とっさに、孔子がいつも自分たちに云っていることを、そのまま応用した。
孔子は、それを聞くと、すぐ眼をそらして、妙に顔をゆがめた。
子路は、しかし、孔子の表情をこまかに観察する余裕を持たなかった。
彼はやっと孔子の凝視から逃れることが出来て、やれやれと思った。
とたんに彼の口は非常に滑らかになった。
「費には、治むべき人民がおります。
祭るべき神々の社があります。
そして、民を治め、神々を祭ることこそ、何よりの生きた学問であります。
真の学問は体験に即したものでなければならない、とは常に先生にお聞きした事でありますが、特に、子羔のように、古書について学問をする力の乏しい者は、一日も早く実務につかせる方がよろしいかと存じます。
誰だって、実務を目の前に控えて、ぐずぐずしてはおれませんから。」
 子路は、一気にしゃべりつづけた。
そして自分ながら、とっさに孔子自身の持論を応用して、それを自分の言葉で巧みに表現することの出来たのを得意に感じながら、孔子の返事をまった。
孔子は、しかし、そっぽを向いたきり、ものを言わなかった。
彼はじっと眼を閉じて、何か思案するような風であった。
子路の眼には、妙にそれが痛々しかった。

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