初級翻訳・神州天馬侠 第150話

吉川 英治

(矜羯羅童子、制多迦童子……)

一

まるで夢のようだった。
一瞬の疾風。
たしかに竹童の愛鷲クロのようだったが――見間違いであったかしら? 幻であったかしら? ――と、咲耶子はあとの静けさの中で錯覚にとらわれた。
しかし、錯覚ではない。
いまの名残で吹き煽られた落葉が、まだ一ひら二ひら宙に舞っていることでもわかる。
鷲がこの源氏閣の付近に降りたのは事実に違いなかった。
とすれば、どこへ行ったのかしら――と彼女が欄干の南側から奥庭の廂(ひさし)を覗いていると、突然、
「キャッ! キッキッキ、キ、キ、キイ……」
とけたたましい声を上げて、廂裏の垂木をガリガリと走ってきた小猿が、咲耶子の肩に飛びついて手をやり、また足元へ飛び降りた。恐ろしく何かに怯えたらしく、彼女のまわりをグルグルと回り出した。
大久保長安が下の奥庭に飼っている三太郎猿だ。
ときどき源氏閣に這い上がってきて、幽閉されている咲耶子とはいつの間にか仲良しになっていたが、今夜もその仲良しの人のいる三層の上の棟木にでも来て、腕枕で寝ていたものと見える。
その三太郎が驚いて飛び降りてきたところをみると、やはり鷲はこの閣の屋根に翼を休めているのであろう――と咲耶子が欄干に手をかけて屋根を振り返り仰ぐと、
「もし、女のお方」
意外や、上から人の声が呼ぶ。
はっ……と咲耶子は肝を縮めた。
さっきの火合図で、明け方までに胸に一つの計画があったため、不意な人声に、思わず冷や水をかけられたような心地がした。
「もし……」と、上では再び呼んでいる。
「こんなところに降りてしまい、まことにどうにもならず困っておりました。失礼ながら、そこへ降りることをお許しくださらぬか」
見ると、屋根から下を覗いているのは、色の白い美少年だった。
金の元結が前髪にチラチラと光り、浅黄繻子の襟に葡萄色の小袖、夜目にもきらやかな裃姿――そして朱房のついた丸紐を胸のところで蝶に結んでいるのは、背中へ斜めに背負った状筥(手紙入れ)であると見えた。
咲耶子は不思議なものが天から降りてきたように感じたが、とにかく自分に異議を唱える権利はないので、彼の頼みを許した。するとこの美少年、三太郎猿ほどのあざやかさではないが、垂木にすがって欄干の上へ、白足袋の爪先を立ててヒラリと、源氏閣の座敷の中へ入ってきた。
「――ありがとうございました。して、これから大久保さまのご本殿か、お表へ参るには、どこに降り口がありましょうか……」
「階段をお尋ねになりますので? ……」
「さようです」
「この源氏閣には、降りる階段はございませぬ」
「えっ……」美少年はびっくりして、
「では、どうしてあなたはここへ上がられましたか」
これは、いかにももっともな質問だった。
その当然の問いを受けて、咲耶子は返事に窮した。
自分は捕らわれの身なので、この閣の頂きに上げられ、階段を外されてしまっているのだが、何者とも知れないこの少年に、うかつにそんなことを口滑らせていいものか、悪いものか。

二

「いえ、この源氏閣にも、昼になればまた、降りる口がないことはございませんが……」
咲耶子の返事は随分と曖昧だった。
「ほお……夜は下へ通じませんか」
「はい」
と、そこでキッパリと話を切り、
「ですが、あなたはいったい何者でございますか。また、どうして屋根の上などから? ……」
「ああ、そうでした。いかにも、それを先に申し上げなければ、さぞやご不審でございましょう」
と、中腰でいた身構えを直し、咲耶子の前に静かに座った。
小屏風の陰に、銀の照らしをつけた切燈台が、豆粒ほどの灯明を立てていた。
それで見ると少年はまだほんの十三、四歳。それでいて礼儀言葉はまことに正しく、裃に短い刀を二本差している姿は、夢の国から来た使者のようである。
両手をついて、
「申し遅れました。わたくしは遠江浜松にご在城の、徳川家康さまのおん内でお小姓とんぼ組のひとり、万千代づきの星川余一というものでござります」
「えっ、家康さまの家来?」
「はい」
やはり敵方の片割れであった。
うかつなことを先に口へ漏らさなくてよかったと、咲耶子は心のうちで思うのだった。
「余一とやら、それは嘘でありましょう。お小姓とんぼ組のひとりとは偽りに違いありませぬ」
「なぜでございますか。」「わたしは、万千代さまの組の小姓にちがいないのですから」
小さな余一は躍起になって、年上の咲耶子がたくみに仕掛けた言葉の罠に、まんまと乗せられてしまいました。
「では、そのお小姓組のおまえが、どうしてこんな屋根の上から、お館の中へ入ろうとするのですか」
「実はわたくし、鷲の背中に乗ってきたのでございます……」
「おや、では今、空から真っ逆さまに降りてきたあの怪鳥に乗って……?」
「はい。浜松城を出たのは宵の口でしたが、途中の空で恐ろしい霧にまかれてしまい、やっと今ごろここにたどり着きました。ここへ来ると、またどこかで狛笛(こまぶえ)の音がしていたせいか、門のほうへは降りてゆかず、とうとうこの源氏閣の屋根の上へ、翼を休めてしまったのです」
「そして、その鷲はどうしましたか」
「閣上の擬宝珠(ぎぼし)の柱に結びつけておきました」
「あの鷲は、以前わたしもよそで見たことがありますが、どうしておまえのものになっているのか、不思議でなりません」
「さればです――」
と余一は袴の両膝に手を置き直すと、小生意気そうな瞳をパチリとさせて、言いました。
「あの金色の瞳をした黒鷲というものは、今年の春の暮れごろ、三方ヶ原で万千代さまが、偽物の独楽(こま)回しに奪われたものにございます。浜松のお城でも、万千代さまのご希望とあって、その後あちこちへ足軽を走らせて行方を探させておりましたが、トンと姿が見つかりません。
ところが先日、裾野の猟人が『この黒鷲が落ちたところを生け捕りにした』とお届けに上がりましたので、見ますと、どこでやられたのか、股と左の翼の脇に二カ所の鉄砲傷を負っておりました。
『やれ不憫(ふびん)な、おお、かわいそうなやつだ』と、万千代さまはもちろん、とんぼ組一同が浜松城のお庭で飼い、治療をしながら大事に育てましたので、鷲もいつしかみんなに慣れ、いまでは私のようなチビでさえ、自由に使いこなせるようになったのです」
と、ここで余一は言葉を切り、「ああ、自分は何を聞かれて、何を答えようとしていたのか」と、かわいらしい首を少し傾げました。
「ああ、それから、今夜のわけでございます……。ふいに今夕、浜松城の大広間で何やら皆さまの御評定(ごひょうじょう)があり――と見ておりますと、『余一、余一!』と万千代さまのお呼びです。はっと御前(おまえ)に畏まりますと、すなわち、この御状筥(じょうばこ)を……」
肩に回して胸に結んだ、紅い丸紐の房をいじりながら、
「――この御書を急いで、甲州躑躅ヶ崎(つつじがさき)の大久保石見守(いわみのかみ)の手もとへ届けよ、との仰せにございます。これは名誉なお使番。クロを飼いならして以来、鷲に乗ってお使いをするものはとんぼ組の誉れとされておりますので、わたしは本当にうれしゅうございました」
「おお、それでよくわかりました。

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