二
そこは密林の奥深くでしたが、地盤の岩石が露出しているため、一町四方ほど樹木がなく、開けた平地には硯(すずり)のような黒い石が転がり、裂け目や窪みからは、いくつもの筋に分かれた水がサラサラと流れていました。
ギャア、ギャア、ギャア。
――不思議な怪物の鳴き声がします。
そして、すさまじい羽ばたきの音がそこで聞こえました。
見てみると、ひとつの岩頭に、金色の瞳と黒い毛並みを持つ大鷲(おおわし)が、威風を辺りに漂わせ、八方をにらみつけて止まっています。
言うまでもなく、クロです。
むろん、足は何かに縛り付けられ、岩の根元から動けないようにしてあるようでした。
「おい、もうひとつ啼け。もうひとつ啼いてみろ」
七尺(約二メートル)ほど離れて、鷲と向かい合って腰かけていたのは、例の蛾次郎でした。竹の先に兎の肉を突き刺して、しきりにクロを懐柔しようとしていました。
「おい、蛾次公、何をしてるんだい」
「えっ」
不意に肩を叩かれて、蛾次郎がひょいと後ろを振り返ると、竹童が松明を薪のように背負って立っていました。
「何をしてるって、餌をやってるんだよ」
「よけいなことをしてくれなくてもいい。さっきもおいらが鹿の股肉を二つやったんだから」
「ああ、竹童さんにも、俺が土産を持ってきたぜ。今日は焼き栗だ。ふたりで仲よく食べようじゃないか」
「やけにこのごろは、おいらにおべっかを使うな。そんなにお世辞を言ってきたって、もう、そう簡単にちょくちょく鷲に乗せてやるわけにはいかないぜ」
「そんなことを言わないでくれよ。俺を弟子にしてくれ。な、頼むよ。その代わりに、おまえのためなら、俺はどんなことだって、嫌とは言わないからよ」
「本当か」
「本当だ!」
「じゃあ……」「さっそく一つ、頼みごとがある」
「頼んでくれよ、さあ、なんだい」
「大役だぞ」
「いいとも!」
「他人の用事ばかりしていて、お前の主人である鼻かけ卜斎(ぼくさい)に叱られないか?」
「大丈夫さ。俺はもうあの家を飛び出して、今じゃ徳川家の……」
と言いかけて、さすがに頭の弱い蛾次郎も、自分の立場に気づいたらしく、口ごもりながら言い直しました。
「今じゃ、天下の浪人と同じ身分さ」
「ふうん……じゃあな、これから俺のために、ちょっとそこまで偵察に行ってくれないか」
「偵察に?」
蛾次郎は、ぎょっとして目を白黒させました。
竹童は、ことさらになんでもないような顔をして言います。
「この間から雨ヶ岳(あまがたけ)に陣取っている、武田伊那丸(たけだいなまる)さまの軍勢が、人穴城(ひとあなじょう)に向かって動き出したら、すぐにここまで知らせてくれればいいんだ」
「そしたら、いったいどうするつもりなんだい?」
「どうもしないさ。この鷲に乗って、空から戦の様子を見物するのさ」
「おもしろいなあ! 俺も一緒に乗せてくれるか?」
「乗せてやるよ」
「よしきた、行ってくる!」
蛾次郎は、昔から人によく使われてしまう性格です。年下の竹童におだてられて、一目散に駆け出していきました。
そのあとで、竹童は鷲の足に繋いでいた縄を解いてやりました。
クロは自由の身になっても、竹童のそばを離れることなく、流れる水を飲んでいます。竹童はまた火打石を取り出すと、そこらの枯れ葉に火を移し、煙が立ち昇る夕暮れの空を見上げながら、
「遅いなあ。あののろまな斥候を待っているより、また自分でそこいらの木に登ってみようかな」
と、ひとり言をつぶやいたときのことです。
いつの間にか、竹童の身辺を狙ってじりじりと這い寄ってきた二人の武士がいました。それは先ほどの「甲虫」たちです。彼らは突然飛びかかってきて、
「こらッ、怪しい小僧!」
「動くなッ」
と、竹童の両腕をねじ伏せました。
竹童はまったくの不意打ちに、叫ぶ間もありません。体を跳ね返そうとしましたが、すでに甲虫たちの短刀がギラリと目の前に突きつけられました。
「動けば命はないぞ。静かにしろ、静かにしろ」
「な、な、何をするんだ!」
「何でもクソもあるか! 貴様のようなガキの分際で、この松明を何に使う気だ。文句はあとで聞いてやるから、とにかく天子ヶ岳(てんじがたけ)のふもとまで来い!」
「や、ではお前たちは徳川方の斥候だな」
「そうだ、亀井武蔵守(かめいむさしのかみ)の手の者だ」
「ちぇッ、そう聞けば俺にも覚悟があるぞ!」
「生意気なッ!」
たちまち、大人二対、竹童一人の乱闘が始まりました。
「こいつ、体は小さいが、一筋縄ではいかないぞ」と見た甲虫たちは、いきなり短槍をひっつかんで、鋭く突いて、突きまくります。
あわや竹童、絶体絶命か――と思ったその瞬間。
突然、大地をめくり返すような一陣の突風が吹き荒れました! と同時に、パッと翼を広げた金色の瞳の黒鷲(クロ)が、片方の翼で一人をはね飛ばし、あっという間に、もう一人の肩先に飛び乗りました。鋭い銀の爪を怒らせて、その男の顔をバリッと引っかくと、そのまま宙へと吊り上げました。
「わッ!」
と悲鳴を上げて地面に落ちてきた男を見ると、目も鼻も口もわからないほどの傷を負っていました。顔中が真っ赤な血に染まった、ただの肉塊のようです。
信玄の再来
一
さて、伊那丸は小袖の上に黒皮の胴丸具足をつけ、粗末な籠手(こて)と脛当(すねあて)、そして黒の陣笠を深くかぶり、今、静かに馬に乗って雨ヶ岳を下ってきています。
本来ならば、世に恵まれた君主として、鍬形(くわがた)の兜に八幡座(はちまんざ)の星を飾り、緋縅(ひおどし)の鎧と黄金の太刀を華やかに身にまとうべきお方なのに……。
付き従う民部(みんぶ)をはじめ、忍剣(にんけん)、小文治(こぶんじ)、蔦之助(つたのすけ)、そして咲耶子(さやこ)も、馬を進めながら、思わずホロリと小袖を濡らしました。
兵はわずかに七十人。
誰もが生きて帰る戦いとは思っていないので、張り詰めた表情をしています。決死の瞳で、何も語らぬ口を固く結び、粛々と歩調を揃えていました。
まもなく梵天台(ぼんてんだい)の平らな場所へ着きます。
夜の帳(とばり)が深く下りて、徳川方の陣地はすでに見えなくなっていましたが、すぐ正面の人穴城には、魔獣の目のような狭間(さま)の灯りがチラチラと見渡せました。
その時、やおら俎岩(まないたいわ)の上に立ち上がった軍師・民部は、人穴城を指さして、
「今夜の敵は呂宋兵衛(るそんひょうえ)、後ろに徳川勢がいるからといってひるむな――」
と高らかに全軍の気を引き締め、さらに続けます。
「味方は小勢だが、これは正義の戦いだ。弓矢八幡のご加勢があるぞ。われと思わん者は、人穴城の一番乗りをせよ!」
同時に、キッと馬の首を陣頭に立てた伊那丸が、その言葉を受け継いで叫びました。
「やあ、面々! 戦の勝敗は電光石火だ。今こそ、この武田伊那丸に、お前たちの命を預けてくれ!」
凛々しい勇姿は、周囲を圧倒するほどでした。
烏合の衆といわれた野武士たちも、この健気な姿に、具足を涙で濡らさない者はいませんでした。「おう、この若君のためなら、命を捨てても少しも惜しくはない」
そう叫ぶと、骨が鳴り、筋肉が躍り、兵たちの勇気はいつもの十倍にも膨れ上がりました。
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