竹童(ちくどう)を残して、陣馬ヶ原のお花畑の危険を逃れてきた咲耶子(さやこ)は、砦の奥郭(おくぐるわ)へと飛び降りるなり、狂ったように櫓番(やぐらばん)や武者だまりの侍たちへ声をからして呼びかけましたが、誰一人として「オオ」と返事をする者はいません。
夜は灯を消しておく習慣の城塞は真っ暗で、森閑としており、ただ一人叫び回る彼女の声が木霊(こだま)するばかりでした。
「裏切り者がある。出合え! 出合え!」
なおもこう呼び立てながら、咲耶子はおくの郭から二の郭の中間、桝形(ますがた)の柵まで走ってきましたが、当然そこに夜半でも詰めていなければならないはずの武士たちは、声もなく静まり返り、木戸の口は開けっぱなしになっていました。
初めて、ここにも大事が起きているのを知って、咲耶子は「あッ」と息を呑んで驚きました。
見れば、木戸の番小屋の前に、七人の部下が槍を掴んだまま悶々とのたうち回っています。また、向こうの柵のそばには、見回りの三人組が三人とも、胸に一本ずつの短刀を受けて重なり合って転がっていました。
「や、や、これは……?」
井楼(せいろう)の梯子を登ってみると、そこにも、目を光らせていなければならないはずの見張り役が、櫓柱の根元に爪を立てたまま息絶えていました。
「毒! ……」
裏切り者の恐ろしい策略を悟って、彼女は慄然(りつぜん)となる胸を抱きしめました。と同時に咲耶子はまた、自分と竹童の肩に預けられている責任を強く思うのでした。
「もしも、一党の方々が帰らぬ留守に、この砦を失うようなことがあったら――」
そう考えるだけでも、ふさふさした黒髪が夜風に逆立ちそうでした。
「オオッ」と我に返ると、咲耶子。
「――この山城は三段郭、奥の砦の者は毒水を飲んで倒れたにしろ、まだ八合目の外城(そとじろ)の者は無事で、何も知らずにいるかもしれない」
そう気がついて、櫓柱にかけてあった陣貝の紐をはずし、金嵌(かなぐり)の法螺貝を唇に当てて、息のある限り吹いてみました。
バウー……バウウウウ……ッ。
序破急に甲音三声、揺韻をゆるく引いて初甲の音に変える、勘助流陣貝吹き。「変アリ部ニツクベシ(異変あり、部隊に集結せよ)」の合図です。
だが、叫んでも反応がなかったように、その貝の音が遠く八合目へ鳴り響いても、外城の柵から答えの貝が鳴ってくることはありませんでした。
「外城の者までも、毒にまわされてしまったと見える、ああッ! ……」
絶望的な声とともに、思わず陣貝を取り落とすと、井楼櫓の下の岩へ貝は粉々に砕け散りました。
「咲耶さまッ」
櫓の下へ誰かが駆け寄ってきました。
「お、竹童! ――竹童さん?」
「貝合図は吹いてもムダです――扇縄の水の手へ毒を流したものがあって、砦の者はみな殺しになってしまった。アア、ここはもう死の城だ!」
少年の声は、悲壮でした。「そして、陣馬ヶ原にいたまわし者はどうした?」
「斬りちらして駆けだしてきました――こっちのほうが心配になるので」
「といっても……味方はおまえとわたしふたりきりだ」
「たとえふたりきりになっても、この砦を敵の手には渡せません」
「よく言った! 死んでも敵へは渡せない! ……おやっ?」
「な、なんです」
と竹童は、やぐら柱にすがって背伸びをしている咲耶子の影を下からあおいで言いました。
「――外城の方には、まだ無事な味方がいるらしい」
「えっ、なにか合図がありますか」
「乱れた火の影がチラチラとうごきだして、上へ上へと押してくる」
「おお、しめた! じゃ、咲耶さま、早く!」
と手招きしました。
ばらばらと櫓梯子を下りると、ふたりは真一文字に奥郭の内部へ入りました。
そして、岩壁や洞窟を利用して建てられてある、砦の本丸のなかへ走りこんだのです。
具足部屋、評定の間、寝所。みな広い床張りで、そこには毒死の侍もなくしんとしていました。
伊那丸が留守の間、錠口の先からだれも人を入れなかった場所なので――。
まっしぐらに通り抜けて、軍師の部屋の扉を開けました。
ここも、小幡民部と蔦之助と小文治の三人が、ひそかに間道から影をかくして三方ヶ原へ立っていったのちに、絶対に部下をのぞかせず、三人の下山を秘密にしていた場所でした。
ガラッと厚い車戸を押しあけて中へ入ると、咲耶子と竹童は、まっくらな床板を手さぐりでなでまわしました。
二
例の間道の入り口をたずねているらしい。
と。
指のかかるところがありました。
ここを開ければ、八合目の柵、三の砦、すべての外城一郭へはむろん、麓へでもどこへでも自由に通りぬけることができます。
ふたりはまず、八通の間道をぬけて、いま山の中腹に見えた味方を呼びいれてこようとするつもりでした。
であったが? ……
「やっ、妙な音?」
床板をめくりかかった竹童が、ギョッとした目を咲耶子へ向けて、
「音がしますよ、妙な音が?」と、息をのんだのです。
ふたりは這うようにかがみこみ、間道の蓋へ耳をあててみました。
いかにも妙な物音がします。
ダッダッダッと地の底を打つような音――ゴゴゴゴゴという騒音――それがだんだんに近づいてくるのです。
「味方がくるんだ!」
竹童は信じる言葉に力をこめました。
「頂上に裏切り者がでたのを知って、外城の者が一挙にやってくるんです。そうにちがいない」
「じゃ、なおのこと、早くここを開いておいて、篝火(かがりび)をつけておこうね」
「いや、篝火は待ってみたほうがいいでしょう。どこにどんな裏切り者が息をひそめているかも知れず、そいつらが他の柵や木戸の出丸をやぶって、いっせいに騒ぎだすと、いよいよ手におえなくなってしまいます」
とささやいていると、不意に、間道の下から、ドン、ドン、ドン! とはげしく槍の石突きでつきあげる者があります。
「味方か?」
と竹童が床へ口をつけて呼ぶと、なにやらガヤガヤ騒ぐのがかすかに聞こえます。
分厚い蓋が隔てているのでその意味はわかりませんが、なにせよ、人間の声が渦巻いているのは想像されます。
「味方かッ?」
「おう!」
「外城の者かッ?」
「おウ! 早くお開けください」
――野太い声が遠くのように聞こえました。
「――砦の内部に異端者があらわれましたので、本城にも変事はないかどうか案じて駈けつけてまいりました。はやくお開けください」
「よしッ、心得た」
と、竹童が手をかけましたが、開こうとしても石のような重さです。咲耶子とともに力をそろえて、ウムと四、五寸ほど持ちあげると、あとはすなおにギイと蝶番がきしんで、径三尺四方の口がポンと開きました。
すると、下からまっ赤な火の影が、開いたなりにパッと天井へうつりました。
まるで四角な火柱のように。
すると、その赤い火光のなかから真っ先に、
「それ、本丸へ出たぞ!」
とおどりだしたのは、胴服に膝行袴(ひざゆきばかま)をはいた異形な男――つづいて松明を口にくわえ、鎖にすがって無二無三によじ登ってきたのは、味方と思いきや、猿のような一少年でした。
「あッ、蛾次郎!」
「おう! 竹童」
と、刹那、火を発したような驚愕と驚愕が交錯しました。
異形な男は鼻かけ卜斎でした。
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