背中の上で二人の童子が互いに斬り合い、奪い合っていた般若丸の切っ先が、誤って鷲のどこかを傷つけてしまったに違いありません。
「あッ――」と思う間もなく、虚空の上から絡み合った二つの体がフーッと真っ逆さまに落ちていったかと思うと、琵琶湖の真ん中で、まるで竜巻でも起きたかのような水煙が、ザブーンと高く跳ね上がりました。
しぶきが散ったあとには、雪かと見紛うばかりの白い泡が一面を埋め尽くしていました。
そして、その泡が消えゆくにつれて、夕暮れの青黒い波がモクリ、モクリと大きな波紋を描いていましたが、じっと波の中を凝視すると、電気魚のような光が走っています。さっきまで天空にいた竹童と蛾次郎は、今度は湖水の底で、なおも激しく争っているのです。
時折、黒い波を切ってピカリピカリと光るのは、般若丸の輝きでした。
やがて竹童の力が勝ったのか、刀をもぎ取ってブクリと水面に浮かび上がってくると、その腰に絡みついたまま蛾次郎も、
「ア、ぷッ……」
と鮫のように水を吐き出しました。
「えい、邪魔なッ」
鞍馬の竹童は、般若丸を口にくわえるやいなや蛾次郎を蹴り……サッと抜き手を切って泳ぎ出しましたが、蛾次郎は竹童の足を固くつかんで、死んでも離すまいと必死です。
二度、三度と浮いては沈み、浮いては沈みするうちに、さすがの竹童も心身を極限まで使い果たし、蛾次郎に足を引かれたまま、ブクブクと深みへ重く沈んでいきました。
そしてついに湖面へ浮かんでくることはありませんでしたが、しばらく経ったのち、そこから少し離れた竹生島の西浦あたりに、名刀『般若丸』を血に染まったまま口にくわえて失神している竹童と、その右足に絡みついてぐったりとした泣き虫の蛾次郎が、まるでクラゲのようにフワリ、フワリと……夜の湖水の波に揺られながら漂っていました。
二
「これッ、誰かおらぬか! この渡し場の者は誰かおらぬか!」
すっかり日が暮れた松本の渡し場へ急ぎ足でやってきて、船小屋の戸を叩いていたのは加賀見忍剣でした。
「湖水に落ちて溺れた者がいる。それを救うために、急ぎ船を借りたいのだ! これ、誰かおらぬか、船頭は!」
と、破れんばかりに戸を叩きましたが、中に灯りの影が漏れているにもかかわらず、一向に応答がありません。加賀見忍剣が禅杖を抱えて付近の波打ち際を見回していると、三井寺のふもとから遅れて駆けつけてきた伊那丸と龍太郎も、遠くから見た竹童の危急を案じて、
「忍剣、船はあったか?」と、そこへやってくるなり声を急かしました。
「不思議なことです……この渡し場に、一艘もそれが見当たりませぬ」
「まだ宵の口だというのに、矢走(やばせ)へ通う船が一艘もないはずはないのだが」「その辺りの小屋に、船頭がいるはずだ」
「さ、それをただいま呼んでいるところでございますが」
「船頭もおらぬのか。
――さては、先に逃げた呂宋兵衛やその手下どもが、この辺りの船をかき集めて、琵琶湖を渡ったものとみえる。
ああ、ふびんなことをした。
いかに竹童でも、あの高い空から落ちて、はや日も暮れてしまったことゆえ、さだめし水におぼれたであろう……なんとか、助けてやる工夫はないものか」
主従三人、悲しみに沈んで手をつかね、湖水の闇を見つめていると、瀬田川の川上――はるか彼方の唐橋の上から、たいまつを連ねた一列の人数が、まっしぐらにそこへ急いできた。
危難は竹童の身ばかりではない。
敵地に身を置いて、草木の音にも気を配っている伊那丸主従は、それを見るとハッとして、和田呂宋兵衛が引き返してきたのか、膳所の城にいる徳川方の武士が来たのかと身構えていると、やがて、たいまつの先駆けとなって、馬を飛ばしてきた一騎の武者。
「やあ、そこにおいでになるのは、武田伊那丸さまでございませぬか」
声を高く張り上げて近づいてきた。
「おお、いかにもこれに渡らせらるるは、伊那丸君でおわすが、して、そこもとたちは何者でござる」
前に立って龍太郎と忍剣が、厳しくこういって油断をせずにいると、
「さては!」
とその騎馬武者三人、ヒラリ、ヒラリと鞍から飛び降りて、鎧や刀の音を響かせながら面前に立った。
「それがしは、福島市松の家来、可児才蔵」
こう名乗ると、次の武者が――
「拙者は、加藤虎之助の家臣、井上大九郎と申す」
「同じく、木村又蔵でござる」
と、いずれも立派な態度で会釈をした。
そして再び、真ん中の可児才蔵が一歩進んで、
「不意にこのような戦場の姿で、人数を率いてまいりましては、さぞやお驚きかと存じますが、実はこれ、お迎えの軍卒。さっそくあちらへ用意いたしてまいりました馬にお召しを願います」
「なんという。
伊那丸さまをお迎えにまいられたとか?」
意外な言葉を聞いて、忍剣と龍太郎が顔を見合わせていると、井上大九郎が言葉を継いで、
「それは、桑名のご陣にある、秀吉公からの直命でござる。
殿のおおせには、このたび伊那丸さまのご上洛こそ良い機会なれば、ぜひ一度お目にかかったうえ、長くお預かりいたしている品を、手ずからお返し申したいとの御意。なにとぞ、ご同道くださいますように」
「はて、不審なおおせではある? ……」
伊那丸は優美な眉をひそめて、
「別にこの方より、秀吉殿へお預けいたした品もないが……」
「いや、確かに、大事な品をお預かりしているとおっしゃられました。
そのために、桑名攻めの陣中から、われわれが騎馬を飛ばしてお迎えにまいったわけ」
と言うと、加賀見忍剣は、もしやうまい言葉を使って若君を生け捕りにしようとする秀吉の策ではないかと、わざと鉄杖をズシーンと大地へ突き鳴らして、
「ではお伺いするが、桑名攻めの戦場におられた方々が、どうしてここへ伊那丸さまがお通りになることを、かように早く承知されたのじゃ」
「その不審はごもっともであるが、実は今日の午(うま)の刻(昼頃)前に、南蛮寺の番人・和田呂宋兵衛をはじめその他の者が、ちりぢりばらばらとなって桑名のご陣へ駆けつけてまいりました」
「ウム。
勝頼公を差し立てよとは、あれも秀吉殿の指図であろうが」
「都に噂が立ったとき、その在所を調べよとはお言いつけになりましたが、罪人扱いにして桑名に護送することなどは、全く秀吉公の存じないこと。
――しかるに呂宋兵衛、桑名のご陣へまいっていろいろと差し出がましいことを申し上げたため、かえって秀吉公のお怒りをうけて、即座にご陣屋を追い払われ、南蛮寺の番衛役も召し上げられ、この後は京都へ立ち入ることはならぬと、手下の者まで追放になりました」
真実は顔にあふれるもの。
使者三名の言葉には、その真実味がこもっていた。
では、筑前守秀吉は、必ずしも悪意があって勝頼の行方を尋ねさせたのではなかろう……と伊那丸も心が解け、忍剣や龍太郎も、それならばとその意に従うことになった。
いつの間にか、一同の周りにはたいまつを明るく照らした軍兵が五、六十人、ずらりと輪になって陣列を組んでいた。
「それ、用意の馬を差し上げい」
と、木村又蔵が合図をすると、おっといって馬回りの武士たちが、月毛、黒鹿毛の馬三頭のくつわを並べ、馬具の金属音をリンリンと響かせて、三人の前へ引いてきた。
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