「狩谷はおらんか! 狩谷軍太夫はおらぬか!」
しかし返事はありません。殿中はただなんとなく騒がしく、じっとしていられなくなった長安は、錠口まで急ぎながら叫びました。
「誰かおらぬか! おお、伊部熊蔵はどうした!」
呼び立てながら角を曲がると、出会い頭に廊下の横からサッと真槍の光が走りました。ビクッとして飛びのくと、
「や、これは殿」
「なんじゃ、伊東十兵衛ではないか」
「はっ……」
ピシャリと槍を廊下に置き、老臣の伊東十兵衛が慌てて長安の前にひざまずきました。
「館の庭で騒ぎが起きておるが、あれは何事だ? 夜討ちか?」
「いや、お案じなされますな。それほどの人数の襲撃とは思えませぬ」
「領主の城に押しかける盗賊などあるまい。では、何者が乱入したのだ」
「詳しい目的は分かりませんが、ことによると源氏閣に監禁している女を救い出しに来た、命知らずの連中かもしれません」
「咲耶子を奪い返しに? うむ、しゃらくさい奴らめ! 浜松城へ護送するまでは大事な捕虜だ、決してぬかりがあってはならんぞ」
「はっ」
「伊部熊蔵や宿直の者たちはどうした」
「ご寝所に近づけては申し訳がないと、皆で外側を固めております。中でも伊部熊蔵は腕の立つ若侍を選び、いち早く白壁門へ向かって斬り伏せておりますから、追いつけば四十や五十人の浮浪人どもなど、皆殺しにして戻るはずでございます」
「そうか、しかし肝心の源氏閣の方はどうなっている?」
「源氏閣はすぐこのご本殿の階上にあり、三層までの階段をすべて取り外してございます。そのうえ、あの池の方にも侍を伏せておきましたゆえ、ご安心ください」
周到な老臣の素早い手配に、石見守の目覚めの驚きもやや鎮まり、ホッと胸をなでおろした、その時でした。
何者か、大きな雨戸の向こう側からクルリと身軽に姿をかすめると、廊下の欄間(らんま)へ忍び込んだ怪しげな影が、いきなり奇声を上げて長安の肩へと飛びかかりました。
まさにその瞬間、石見守は……。
はっ! と肝を冷やして曲者の手をつかみ、前へもんどり打たせて投げつけようとしました。伊東十兵衛もスワとばかりにはね起き、手に取った槍の穂先に風を切らせて、長安が投げ飛ばしたところを逃さず一突きにしようと足を踏み出しました。
しかし、曲者は長安の肩から離れようとはしませんでした。鈎のような爪で、しっかりと襟元をつかまれているため、十兵衛は槍を突き出すこともできず、ハッと見ると、長安自身もつかみかかってきた曲者の手の毛むくじゃらな様子に、呆れ果ててしまいました。
「危ないッ、突くな!」
「これは……三太郎猿でございましたか」
「人をおどろかすやつめ。放せ、いたずら者め!」
「や、殿。三太郎の襟首に、なにか書状が結びつけてあります」
「なんだと、手紙が?」
「はい、立派な打紐(うちひも)で結ばれた状筥(じょうばこ)でございます」
「誰が猿にこんなものを結びつけたのだ? やれやれ、これはいよいよ不審千万。浜松城のお使番が常用する筥であり、しかも紅房(べにぶさ)の掛紐であるところを見ると、ご主君・家康公のお直筆でなければならぬが」
「とにかく、ご開封を」
「うむ、その猿を抱いてこい」
乱入者による騒ぎも気にかかりますが、これまた意外な天からの贈り物である状筥を、とにかく一目見ようと、長安はあたふたと居間へ入り、灯火をかき立てて中を開きました。
三太郎猿は厚かましくも、十兵衛の膝を借りて寄りかかりながら、茶色の目をショボショボさせて様子を眺めています。
「十兵衛、どこかに今宵、お使番の方が来ておるのか?」
「いいえ、そのようなことは表役人から伺っておりませぬが」
「変なこともあるものだ。間違いなくこれは家康公のお手紙で、おまけに今夕の日付となっている」
「いかに早足のお使番でも、夕方からただ今までにここへ着くというのは不思議な次第。……して、御書の内容は?」
「わしに、御岳(みたけ)での軍学大講会の総奉行を申しつけるというご沙汰だ。それに、評議の結果、日程やその他の事項が決まったというお知らせである」
「ほほう……して、日取りはいつごろでございますか?」
「十月七日から九日までの三日間だ」
「昨年よりは五日遅れでございますな」
「そうなるな。当年、軍学兵法の講論・大試合に参加する諸家は、当家を筆頭に、小田原の北条、加賀の前田、出陣中の豊臣家、奥州の伊達、そのほか三、四ヵ国の予定とある。……だが、なぜこの状筥が猿の首に結びつけられていたのか。その儀、なんとも腑に落ちない」
「もし……その状筥の紐の端に、まだ何か紙片が結びつけられているようでございますが」
「うむ、これか」
長安が言われるままに何気なく解いてみると、それは懐紙を裂いて蝶結びにしたような紙片でした。うっかり開けると、まだ乾ききっていない墨色で、少年の筆らしく実に稚拙な走り書きが記されています。読み下してみると、その文言は――。
「お小姓とんぼ組の星川余一、三太郎猿に託してご依頼申し上げ候。お上様のお使いとしてただ今この源氏閣の上に着城いたしたところ、あやしき女人居合わせ、あなたの火を見て乗り入りたる『クロ』という鷲を奪い、屋上より逃げ去らん気配にて候。大急ぎにてこの文をしたため、私もすぐ後より屋根にのぼり組み止める覚悟ながら、万一不覚をしては一大事に候ゆえ、若侍衆、一刻も早くお出合いありたく告げ申し候。火急火急。星に泣く使者」
一
はるばる遠江(とおとうみ)の国から鷲に乗ってきたお小姓とんぼ組のお使番――星川余一が、源氏閣の上に着城するやいなや、よほど危険な状況に追い詰められたらしく、機転を利かせて三太郎猿を利用し、石見守長安のもとへ「火急火急」と救いを求めてきたのでした。
読み終えるなり石見守は、座ったばかりの腰を浮かせて叫びました。
「十兵衛!」
そばに控えている禿頭の老臣を呼び、
「誰も彼もが表の騒動に走り出して、侍部屋には人がおらぬ様子だが、それではならぬ! 源氏閣の上にも思わぬ変事が起きておる。すぐ十名なり二十名なりを呼び戻して、閣上の様子を見に行かせろ!」
老臣の伊東十兵衛も、渡された早文の走り書きを一目見て仰天し、
「おっ、咲耶子のやつめが……!」
「余一の乗ってきた鷲を奪って、監禁していた閣を破り、今宵の騒動に紛れて逃げ延びようとしているらしい」
「うーむ、油断のならぬ女め。捨ててはおけませぬ」
「早くせいッ、早くッ!」
「はッ!」
老臣・伊東十兵衛は言下に立ち上がろうとしましたが、なぜか膝が重く感じられます。
はてな、と思って見てみると、使いをしてきた三太郎猿が先ほどからしたり顔で、自分の膝にもたれかかっているではありませんか。殿様ご寵愛のお猿であり、常からわがまま放題の癖がついているので、老臣の膝を脇息(肘掛け)代わりにすることなど平気なのです。しかし、折も折、十兵衛も気が立っているため、長安の見ている前も構わず、
「ええい、邪魔なやつめ!」
と襟毛を掴んでコッピドク放り投げました。すると「キャッ!」と大げさな鳴き声を上げましたが、三太郎猿は少しも驚いた様子はなく、廊下の向こうにちょこんと両足で立っていました。
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