初級翻訳・神州天馬侠 第91話

吉川 英治

「策はないか! なにかいい名案はないか!」
呂宋兵衛はしばらく額を押さえて考え込んでいましたが、やがて決断したのか、
「うむ、どうしても今夜を逃してはならん。昌仙、耳を貸せ……」
あの大きな碧い瞳をギョロリと光らせ、丹羽昌仙の耳元で何やら計略をささやくと、最後に「よいか!」と強く念を押しました。
「ご名案、心得ました」
「では先に行くぞ。燕作、その菊亭の館へ案内しろ!」
呂宋兵衛は黒い南蛮服をふわりと羽織って立ち上がり、早足の燕作を先頭に立てて、風のごとく天ヶ丘を駆け出しました。
山中を鳴らして、ゴーッという一陣の松風が、朧月夜の空を墨で塗りつぶすように吹き抜けていきました。
呂宋兵衛たちが去ったあと、南蛮寺の絵蝋燭は一つ一つ吹き消されました。あちこちから狩り出された四、五十人の浪人たちが、みな覆面をして黒装束に身を包み、荒れ果てた石壁の会堂へと集まってきました。
ガチャン! と錠前を外す音。ガラガラと重い鉄の扉が開く響き。
そして狼が獲物へとびつくかのように、覆面の男たちが一斉にその中へゾロゾロと入ると、たちまち鉄砲、鉄弓、槍、捕縄など、思い思いの武器を手に取り、丹羽昌仙の指揮のもと、まるで百鬼夜行のように天ヶ丘から京の町へと紛れ込んでいったのです。木の葉笛竹童嘲歌

一

風もないのに、紅梅や白梅の花びらが、池の橋の水面に点々と散り落ち、その香りが現実離れした雰囲気となって、夜の闇の中でゆらゆらと漂っています。
――その時、夜が深まった菊亭家の裏門あたりから、高い土塀をひらりと飛び越え、屋敷の中へ三つの人影が忍び込みました。
月ヶ瀬の美しい景色をそのまま縮めたような庭には、丘があり、橋があり、せせらぎが流れています。あちこちには、ヒキガエルのような形をした石や、優雅な春日灯籠の明かりが、ぼんやりとまたたいていました。
その館の奥庭を、物の影から影へ、暗がりから暗がりへと、息を殺してソロリ、ソロリと進んでいった三つの影は、やがて広い泉水のほとりに出ました。互いに目配せをしてうなずき合うと、一人は右へ、一人は左へと別れて姿を消し、そこにうっすらと立ち残ったのは、和田呂宋兵衛ただ一人となりました。
呂宋兵衛はじっと立ち止まり、泉水の真ん中を凝視していました。
そこには「泉殿」と呼ばれる一棟の水亭が浮かんでいます。
その水亭の障子には、淡い明かりが漏れていました。
その光は水面に映り、静かな小波にゆらゆらと揺れています。
「……」
呂宋兵衛は唇だけを動かし、呪文を唱えるように目を閉じました。
と思った瞬間、そっと足元の小石を拾い上げ、池の中へポーンと投げ込みました。
「あ!」
と驚いたような声が、水亭の中から漏れました。池に面した、骨組みに紙を貼った障子がスッと開きました。
その部屋から、半分ほど身を乗り出して、音のした池の面を眺めたのは、この館の主である菊亭右大臣晴季公です。その前には、先ほどからの旅僧の一人が向かい合って座っており、あとの二人の僧は、少し下がった位置に控えているようでした。
「何事か……」
晴季は微笑を浮かべ、波紋の中に沈んでいく魚の影を見ながら言いました。
「緋鯉であったか。案ずることはない」
そう言うと、またピシャリと障子を閉めてしまいました。
ところが――そのわずかな間、ほんの瞬きをするほどの短い時間に、泉のふちに立っていたはずの呂宋兵衛の姿が、忽然と消え失せてしまったのです。
いや、消えたのではありません。
水遁の秘術を使い、泉殿にかかる橋を渡って、いつの間にか晴季や僧たちのいる部屋のどこかに忍び込んでいたのです。
そんなこととは知らず――晴季は、障子を閉めてほっとした様子で、また小声で、目の前にいる僧姿の貴人へと言葉を続けました。
「いや、何事も時節というもの……こうして諦めることが肝心ですぞ。
あのような小さな水音にさえ、ハッとして心を乱されるご身分、さぞやお辛いこととお察し申しますが、またいつか天運が開ける時もございましょう。
まずはそれまで、ご自身こそが何より大切。決して早まったことをなさらぬよう」
「お心遣い、かたじけなく思います」
正面に座った僧姿の貴人は、言葉少なく沈んでいました。
この人物が果たして武田勝頼本人であるかどうかは、主客の対話があまりに小声であるため、にわかには判断がつきません。
しかし、行灯の光に照らされたその風貌を見ると、肌の色こそ雨風にさらされて下人のように日焼けしていますが、両の瞳はギラリと人を射るような光を放ち、眉は漆のように濃く、頬は引き締まり、唇には威厳が宿っています。どう見ても、ただの人間ではないことだけは確かでした。
「とにかく、一時的にこうされてはどうであろう……」
晴季は、さらに声を一段と低くして言いました。
「嵯峨の仁和寺に、私と親しい阿闍梨がおりますゆえ、まずはそこへお越しなさい。しばらくは天下の騒乱をよそに、世の中の成り行きを見守るのです。
そして武運さえあれば、機を待ってまた大事を計るのが何よりの万全というもの。
……晴季はそう考えますが、あなた様のお考えはいかがかな?」
「至極ごもっともなご提案……今の身で何の勝手な我意を申せましょう。
すべて、よしなにお願いするばかりです」
「では、追い立てるようで心苦しいですが、この館は召使も多いため、夜明けを待って一刻も早く嵯峨へとお移りなさい。私から阿闍梨殿へ、事情を書いた手紙を書いておきますゆえ……」
こう言って晴季は、千鳥棚から硯箱と懐紙を取り寄せ、さらさらと文をしたため始めました。
ところが、いつになく筆が鈍り、書いている間に頭がボーっと重くなってきました。まるでムシムシとした黒い霧に体全体を包まれているような、だるさを覚えたのです。
ハッとして、心を正そうとしました。
そして何気なく周囲を見渡すと、正面の貴人は端然として座っていますが、後ろの二人の従僧は座ったまま、我を忘れて眠りこけています。
「奇怪な!」
晴季は手紙をクルクルと巻き、油断なく目を光らせました。
同時に、三人の僧たちも、言いようのない魔の気配に襲われていることに気づき、無言のまま、ジロジロと部屋の隅々を見つめ合いました。
しかし、行灯の影、棚の影、調度品の影のほか、怪しい者の姿は見当たりませんでした。「では……」
と晴季は、したためた手紙を僧の手に渡した。
――とはるかに、ガラガラと戸をあける音や、人声のざわめきや、また牛車の轍(わだち)、鶏の声など、夜明けを知らせる雑音が、入りまじって、かすかに聞こえだしてきた。
「はてな? まだ夜明けにしては、あまり早すぎるが」
ふと、池の面の障子をひらいてみると、いつか暁の光が、ほのぼonoと水にういて、あちらこちらの庭木の花さえ、しらじらと明けはなれている。
「オオ、不覚不覚、あまり話に身がいって、時刻のたつのを忘れていたとみえる」
「ではお館、人目にたたぬうちお暇をいたす」
「お疲れでもあろうが、昼のおでましは、かなわぬおからだ、すぐにお立ちがよろしかろう」
にわかに取りいそいで、三人の僧はそこから、網代笠をかぶり、菊亭晴季に見おくられて、泉殿から池の橋をわたってきた。

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