初級翻訳・神州天馬侠 第90話

吉川 英治

そして菊亭殿の奥のようすをジッと聞きすましているらしかったが、ひろい大殿作りの内からは、あれきり鼓の音も人声ももれてはこず、ただ花橘(はなたちばな)や梅の香に、ぬるい夜風がゆらめくのを知った。

二

駆けるほどにいくほどに、早足の燕作は、さっさつたる松風の声が、しだいに耳ちかくなるのを知った。臥龍(がりゅう)に似たる洛外天ヶ丘(てんがおか)の姿は、もう目のまえにおぼろの空をおおっている。

「アア、息がきれた……」

よほどいそいだものと見えて、さすがの燕作も、そこでホッと一息やすめた。丘はさして高くはないが、奇岩乱石の急勾配、いちめんに生いしげっている落葉松(からまつ)の中を、わずかに、石をたたんだ細道が稲妻形についている。

「どりゃ、もう一息――」

というと燕作は、兎のようにその道をピョイピョイと登りだした。やや中ごろまでのぼってくると、道は二股に分れて右をあおぐと、石壁の堂に鉄骨の鐘楼がみえ、左をあおぐと、松のあいだに朱い楼門がそびえていた。
燕作はひだりの朱門へさして駈けのぼった。これこそ、有名な洛外天ヶ丘の朱門。
なんで有名かといえば、その門作りがかわっているためでもなく、風光明媚なためでもない。ここのいただきの平地に、織田信長の建立した異国風の南蛮寺があるからである。

まだ信長の世に時めいていたころは、長崎、平戸、堺などから京都へあつまってきた、伴天連(ばてれん)や修道士たちは、みなこの南蛮寺に住んでいた。そして仏教の叡山におけるがごとく、ここに教会堂を建て、十字架の聖壇をまつり、マリヤの讃歌をたたえて、朝夕、南蛮寺のかわった鐘の音が、京都の町へもひびいていた。

しかし、本能寺の変と同時に、異国の宣教師たちは信長というただひとりの庇護者をうしなって、この南蛮寺も荒廃してしまった。そして無住のようになっているので、秀吉は呂宋兵衛に、天ヶ丘へ居住することをゆるした。だが、南蛮寺をおまえにやるぞとはいわない。しばらくのあいだ、あれに住めといったばかり、要するに呂宋兵衛は、荒廃した南蛮寺の番人におかれたわけである。

だが、慾のふかい呂宋兵衛は、もう南蛮寺を拝領したようなつもりで、すっかりここに根を生やし、またボツボツと浪人者を山内へあつめて、あわよくば、一国一城の主をゆめみている。だから、むろん、祭壇はあれほうだいだし、もとの教会堂には、槍や鉄砲をたくわえこみ、うわべこそ伴天連の黒布をまとっているが、心は、人穴時代からかわりのない残忍なるかれであった。

「よくいう諺に、天道さまと米の飯はつきものだというが、まったく世のなかはしんぱいしたものじゃない。人穴城がなくなったと思えば、こんないい棲家(すみか)がたちまちめっかる。わはははは、富士の裾野だの大江山だのにこもっているより、いくら増しだか知れやしねえ。しかもこんどは、羽柴秀吉から公にゆるされているのだからなおさら安心。しかし、だれもかれも、悪事をやるなら上手にやれよ、裾野とちがって都のなか、あの秀吉ににらまれると、おれもすこし困るからな」

広間には、燃えるような絨氈(じゅうたん)をしきつめてあった。そこは南蛮寺の一室。四方に大きな絵蝋燭(えろうそく)をたて、呂宋兵衛は、中央に毛皮のしとねをしき、大あぐらをかいて、美酒をついだ琥珀のさかずきをあげながら、いかにも傲慢らしい口調でいった。

「なあ昌仙(しょうせん)、そんなものじゃないか」

「仰せのとおり、こうなるのも、頭領のご武運のつよい証拠でござる」

そばにいて、相槌を打ちながら、頭をさげた武士の容形、どこやら、見たようなと思うと、それもそのはず、人穴落城のときに、法師野までともに落ちてきて別れわかれになった軍師、丹羽昌仙だ。席には、昌仙以外にも人穴城から落ちのびてきた野武士たちがおり、あらたに加わったならず者の浪人たちも居並んで、その数は四、五十人にものぼりました。彼らは呂宋兵衛のおこぼれにあずかりながら、どいつもこいつも、へつらうようなお世辞を並べ立てていました。

三

そこへ、朱塗りの門を通り抜け、本堂の階段をバラバラと駆け上がってきたのは、早足の燕作でした。
「お頭、とうとう見つけ出しましたぜ!」
と、燕作は回廊の外で膝をつき、大粒の汗を拭いました。
「おう、燕作か」
呂宋兵衛は大広間からその姿を見て言いました。
「見つけてきたとは、吉報のようだな。では、勝頼の隠れ家が分かったということか?」
「へい……その通りで」
燕作は唾を飲み込んで喉を潤すと、話し始めました。
「実は今日、勝頼を捜すために蚕婆(かいこばば)と二人で加茂川の岸をぶらついておりましたら、ご存じでしょう、あの鞍馬の竹童(ちくどう)という小僧が堤にぼんやり座っていたんです。見ると、その体に似合わぬ名刀を差していたもんですから、こいつをひったくってやろうと、蚕婆は柳の木の上に隠れ、わっしは知らぬふりをしてなれなれしく話しかけたんです」
「こら、燕作!」
ふいに呂宋兵衛が魔物のような口調で遮りました。
「バカ野郎め。見つけたというのは、その竹童のことか。ふざけるな! 誰がそんな小僧を捜せと命じたのだ」
「ま、ま、待っておくんなさい」
燕作は縮み上がってどもりながら言いました。
「その竹童のことは、話の順序というやつでして……。手っ取り早く本筋を申し上げます。そこへ通りかかった三人の旅僧の様子が怪しいので、蚕婆が後をつけていったところ、朱雀の原の……ええと、菊亭右大臣という公卿屋敷の裏門からこっそりと中へ入ったんです。そのうちの一人は、間違いなく武田勝頼に違いありません。すぐに呂宋兵衛さまへ知らせるよう、蚕婆からの伝言でして」
「うーむ、そうか……」
呂宋兵衛はようやく満足そうにうなずきましたが、まだ疑い深い顔をして問いかけました。
「どうだろう、昌仙。そいつは本当に勝頼だろうか?」
「さよう……」
丹羽昌仙はじっとうつむいて考えていましたが、何か思い当たったのか、ポンと膝を打ちました。
「間違いございません!」と断言しました。
「なぜそう言い切れるのだ」
「菊亭家と武田の祖先とは縁戚の間柄でございます。のみならず、勝頼の祖父である信虎とは格別に親密であったと耳にしております。それならば、いま天下に居場所を失った落ち武者が、そこを頼ってくるのはまことに自然なことと考えられます」
「なるほど、うむ……さてはそうか!」
呂宋兵衛は昌仙の説を聞き、それこそが落ち武者・勝頼の化身に違いないと大きくうなずきました。
すぐに捕らえる方法を話し合い始めましたが、昌仙にも名案はなく、なかなか相談はまとまりません。なぜなら、菊亭右大臣という堂々たる貴族の屋敷にうかつに手を入れれば、あとで朝廷からどんなお咎めを受けるか分からないからです。これは天下人の秀吉自身であっても、滅多なことはできないはずでした。
とはいえ、あのやかましい秀吉から捕縛を命じられている以上、呂宋兵衛はなんとしても勝頼を秀吉の前に引き出さねばならず、さもなくば彼の信用は地に落ちてしまいます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました