初級翻訳・神州天馬侠 第14話

吉川 英治

 月はないが、空いちめんにみがきだされたようなかがやかしい星の光と、ゆるやかに波を縒(よ)る水明かりで、湖は夜明けのようにほの明るかった。
 すると、ギイ、ギイ……と、どこからかこの静寂をやぶる櫓(ろ)の音がしてきた。
「お、ありゃなんの船だろう?」
 と伊那丸が指したほうを見ると、いましも弁天島(べんてんじま)の岩かげをはなれた一艘の小船に、五、六人の武士が乗りこんで、こなたの岸へと舵(かじ)をむけてくる。
「いずれ徳川家の武士にちがいない」「伊那丸さま、しばらくここへ」
 龍太郎が手招きをして、ふたりは草むらのなかに身を隠しました。するとすぐに船が岸につき、黒い服を着た男たちが次々と陸に飛び降りて、口々に何か騒ぎながら去っていきました。
「せっかく仕返しにきたのに、肝心のあいつがいなかったのは残念でしかたないな」
「いつかまた、あいつの姿を見かけたら、すぐにぶった斬ってやるさ。おまけに、住んでいる場所もつきとめてあるんだ」
「あの小僧も、あとで家へ帰って見たら、きっとびっくりして泣きわめくにちがいない。それだけでも、まあまあ、一時の溜飲が下がったというものだ」
 物陰に人がいるとも知らずにこう話しながら、浜松の方へ連れ立って歩いていく男たちを見送り、龍太郎と伊那丸はサッとその場を飛び出すと、男たちが乗り捨てた船へとびうつり、力のかぎり櫓(ろ)をこぎだしました。
「龍太郎、いったい今の男たちは何者なのだろう?」
 船の先端(せんたん)に腰かけていた伊那丸が、ふと尋ねました。
「さて、この夜中に、黒装束でうろつく連中ですから、おそらく盗賊のたぐいではないでしょうか」
「いや、ぼくはあのなかに、聞き覚えのある声を聞いたんだ。盗賊の群れではないと思う」
「はて……?」龍太郎は首をかしげました。
「そうだ、ゆうべ八幡前(はちまんまえ)で、鎧売り(よろいうり)に斬りちらされた悪い武士たち、あのときの者が二、三人はたしかに今の群れにまじっていたぞ」
「おお、そう言われてみれば、たしかによく似ている男たちもおりましたな」
 龍太郎はいつものように、伊那丸の賢さにすっかり感心しました。
そのあいだに、船は弁天島(べんてんじま)へと着きました。
「若君――」と龍太郎は船をロープでつなぎ、振り返って言いました。
「浜松から遠くもない、こんな小さな島に長居するのは危険です。わたしの考えでは、夜が明ける前に、渥美(あつみ)の海へこぎだして、伊良湖崎(いらござき)から志摩の国へ渡るのがいちばんご無事かと思いますが」
「どんな荒海(あらうみ)をこえても、どんな険しい山道をこえてもかまわない。ただ一刻もはやく、かねてから君が話してくれたお方にお目にかかり、また忍剣(にんけん)をさがし出し、ほかの勇士たちも集めて、この乱れた世の中を平和にすること、それが伊那丸のほかの望みはないんだ」
「そのお気持ちは、龍太郎もよくお察ししております。では、わたしは弁天堂の神主か、どこかの漁師を起こして食べ物の用意をしてもらってきますから、しばらく船の中でお待ちくださいませ」
 そう言って龍太郎は、ひとりで島へとあがっていきました。
あたりをあちこち探してみると、白い砂を敷いた、まばらな松の木立の中に、チラチラと明かりがもれている一軒の家が目にとまりました。
「漁師の家のようだな、ちょっと尋ねてみよう」
 龍太郎がスタスタと軒下に近づき、開けっ放しになっている雨戸のすきまから中をのぞいてみると、うす暗い明かりのそばで、ひとりの男が、血まみれになった老婆の亡き骸(なきがら)を抱きしめながら、声をあげて男泣きに泣いていたのでした。

二

 龍太郎がその場を立ち去ろうとすると、中の男はその足音を聞きつけたのか、急に跳び起きて、壁に立てかけてあった武器をつかむやいなや、ガタッと雨戸の外へ飛び出してきました。
「待てッ、待て、待てッ!」
 あまりに鋭い声に、龍太郎もハッとして振り返りました。
すると――その瞬間、目のまゆ間にむかって、ものすごい勢いで突き出してきた鋭い光るものに――はっと驚いて身をかがめながら、片手でそれを巻き込むようにして自分の袖の下へと抱え込みました。
見るとそれは、赤い柄のついた槍でした。
「おい、どうして私の不意をつくんだ」
「えい、とぼけるな! おれのお母さんを殺したのは、お前だろう。天にも地にも、たったひとりのお母さまの仇(かたき)だ。どうなるか覚えていろ!」
「人違いをするな、そんな覚えはまったくないぞ」
「だまれ、だまれッ! めったに人のこないこの島に、何の用があってうろついていたんだ。たったいま、家に戻ってみれば、お母さまはズタズタに斬られ、家の中は荒らされ放題だ。あやしいやつは、お前以外にいないんだぞッ!」
 男の目には、いっぱいに涙があふれていました。
怒りに燃える目を吊り上げて、まったく話を聞こうとしません。
この若者は浜松の町で、ものすごい槍の腕前を見せた鎧売りの男であり――いまはこの島に落ちぶれてはいますが、もとは武士の生まれで、巽小文治(たつみこぶんじ)という名前の男だったのです。
「バカなことを言うな! だれが、恨みもないきさまの年老いた母親などを殺すものか」
「いや、何と言おうと、おれが目撃したからには逃がさないぞ!」
「おのれ! 血迷って後悔するなよ!」
「なにを、この赤い柄の槍でただひと突きにして、おふくろさまへの手向けにしてやる。覚悟しろ!」
「まったく、話のわからないやつだ!」
 龍太郎もカッとなって、槍の柄(え)が折れるほどの勢いでひったくると、小文治もものすごい力をふりしぼって、自分のほうへ引き戻そうとしました。「やッ――」とその機をねらった龍太郎が、ふいに穂先をつッ放すと、力負けした小文治は、槍をつかんだままタタタタタと、一、二間もうしろへよろけていった。
――そこを、
「おお――ッ」ととびかかった龍太郎の抜き討ちこそ、木隠流のとくいとする、戒刀のはやわざであった。
いつか、裾野の文殊閣でおちあった加賀見忍剣も、この戒刀のはげしさには膏汗をしぼられたものだった。
ましてや、若年な巽小文治は、必然、まッ二つか、袈裟がけか? どっちにしても、助かりうべき命ではない。
と見えたが――意外である! 龍太郎の刀は、サッと空を斬って、そのとたんに槍の石突きがトンと大地をついたかと思うと、小文治の体は、五、六尺もたかく宙におどって、龍太郎の頭の上を、とびこえてしまった。
この手練――かれはただ平凡な槍使いではなかった。
龍太郎は、とっさに、眸を抜かれたような気持がした。
すぐ踏みとまって、太刀を持ちなおすと、すでにかまえなおした小文治は槍を中段ににぎって、龍太郎の鳩尾へピタリと穂先をむけてきた。
かつて一ども、いまのようにあざやかに、敵にかわされたためしのない龍太郎は、このかまえを見るにおよんで、いよいよ要心に要心をくわえながら、下段の戒刀をきわめてしぜんに、頭のうえへ持っていった。
玄妙きわまる槍と、精妙無比な太刀はここにたがいの呼吸をはかり、たがいに、兎の毛のすきをねらい合って一瞬一瞬、にじりよった。
天火一陣! ものすごい殺気が、みるまにふたりのあいだにみなぎってきた。

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