だから、いきなり門から入ることはせず、こっそりと裏へ回ってみたり、壁の板に耳をぴたりとつけてみたり、窓の節穴から中をのぞいたりしてみると――あぁ、天のたすけか運命のめぐり合わせか、寝ているどころか、普段よりもずっと大きな声を出して、あの耳障りなガンガンとした声が家の中に響き渡っているではないか。
「こいつはたまらないぞ……」
蛾次郎はどうしたものかと頭を抱えた。
奥にはお客が来ているのだ。
昼間、飯屋でいさかいになった地蔵行者の菊村宮内(きくむらくない)を引っ張り込んできて、久しぶりに夜の更けるのも忘れて話し込んでいるらしい。
となると、宮内の口から、おれが昼間あそこでお酒なんてものをこっそり飲んでみたことだって、きっとペラペラと喋ったに違いない。
親方がやってきたとき、台所の流しの下へすっぽり隠れていたことも、面白おかしく話したことだろう。
おまけに親方は、最近おれが水独楽(みずごま)を回して小遣い稼ぎをしていることをうすうす勘づいているんだから、こんな真夜中に帰ったりしようものなら、それこそ「飛んで火に入る夏の虫」だ。
親方のげんこつでおれの頭に富士山脈でも作られるか、あるいは弓の弦で百たたきの刑に処されるか、どっちにしても一大事の発生だ。あぁ、くわばらくわばら、くわばらくわばら……!
コソコソと、蛾次郎は裏手の暗闇の中にすっかり姿を消してしまった。
いったいどこへ行ったのかと思えば、それは馬糧小屋(ばりょうごや)だった。
馬を飼うためのエサを泥棒する者はいないから、そこだけは鍵もかかっておらず、戸を「ギイ」と開ければ難なく中へ迎え入れてくれた。
そして、また音を立てないようにそっと戸を閉める。
もともと中は真っ暗闇だったが、ありがたいことに、ふかふかとして温かみのある麦わらが山のように積み上げられていた。
どうだい、これ以上ないってくらいの素晴らしい寝床じゃないか!
蛾次郎はすっかりうれしくなってしまうのだった。火がなくても暖かい。人間の親方はあんなに冷たくてとげとげしているのに、どうして枯れた麦わらというものは、こんなに暖かいのだろう。
変だなあ。だが、なにしろありがたい。ここはおいらの安全地帯、いいお住居を見つけたものだ。
蛾次郎は勝手なことを考えながら、いきなり麦わらの山へふんぞり返った。
やわらかいぞ、やわらかいぞ。お大名の寝床だって、こんなに上等じゃあるまいなあ。などと、牧場をとかれた山羊みたいに、わざとごろごろと転がってみた。
「独楽(こま)もある」
ふところから出して、頬っぺたに押しつけた。
木隠龍太郎からやっと返してもらった独楽である。
いつのまにか蛾次郎にとってこの独楽が、命の次に大事なものになっていた。
彼がこの水独楽を愛すること、竹童がかの火独楽をつねに大事にするのと、愛着の深さにおいて少しも変わりはなかったのである。
「独楽よ、独楽よ」
独楽の心棒は、蛾次郎が頬ずりする油を受けて、暗闇の中でも回りそうになった。
なんだかこの独楽には霊が宿っていて、生きているもののように思われる。
いったい、独楽というものは、手で回るのかしら? それとも心が打ち込まれて回るのかしら?
疑問は出たが、そうひょっと考えただけで、これは蛾次郎の知能では解けそうにもなかった。
一時、濠端でひっくり返った彼が、この独楽を返してもらって無事に長屋へ戻ってきたところを見ると、あれから龍太郎の問い詰めにあって、小太郎山以来のこと、躑躅ヶ崎(つつじがさき)の内情など、すっかり話してしまったことは、もう疑うまでもない。
もっとも、蛾次郎の身にとってみれば、甲府一城の安危よりも、この独楽一個が大事なのかもしれない。
だれか、彼を悪童と呼ぶものぞ。
独楽を頬っぺたに押しつけたまま、馬糧の中にやがてグウグウ寝入り込んでしまった彼こそは、まことに、たわいないものではないか。
だが、目が覚めると、こいつがいけない。
すぐにユダのような裏切りを発揮し、天邪鬼をまねる。
蛾次郎よ、永遠に寝ていろ、馬糧の中で。
三
四更(しこう)。
月も三更までを限りとする。
四更といっては、もう夜半を過ぎて暁に近いころ。
馬ぐさ小屋の中の高いびきは、定めし心地よい熟睡に落ちているだろう。
お長屋の灯もみんな消えて、卜斎(ぼくさい)の家の中も、主の声はなく、客の笑いも絶えて、シンとしてしまった。
月のゆくえはわからないが、空一面はいつまでも、月の水色に明るく冴えている。
啼(な)かぬ雁(かり)がしずかに渡る。啼く雁よりも、啼かぬ雁のなんと秋らしいものかげだろう。
と――躑躅ヶ崎の館の高楼にあたって、万物の音も眠り、死したようなこの時刻に、嚠喨(りゅうりょう)と吹く笛の音がある。
高音ではないが、この澄んだ四更の無音界には、それがいつまでも消えないほどゆるく流れ回り、すべてのものの眠りをいっそう深くさせるようであった。
さらにまた、その音を求めるような一点の孤影が大空をめぐっていた。
雁か! 迷子のはなれ雁か!
いや、雁にしては大きすぎる。
あの翼を見るがいい。遠いが、恐ろしい力で風を呼んでいる。
クロだ! 鷲(わし)だ!
おお、されば小太郎山の砦から、この躑躅ヶ崎の高楼にとらわれてきている咲耶子(さやこ)が、悶々として眠られぬ幽窓(ゆうそう)に、あの影をふと見つけて、狛笛(こまぶえ)の歌口に「クロよ、クロよ」と呼ぶ音であったろうか。
それとも、彼女が気を紛らわせるために吹いた笛が、偶然、しばらく行方の知れなかったクロの慕うところとなって、覚えのある音色に、向こうから寄ってこようとしているのであろうか。いずれにしても、この音、あのかげ、おそらく天地に知る者のないことだろう。
と、思ったところが……である。
ちょうどその時刻、それまでは前後不覚であった馬糧小屋の蛾次郎の寝顔の上へ、草鞋(わらじ)の裏からはがれたような一かたまりの土が、しかも開いている口のあたりへ、グシャリと落ちたのである。
いくら寝坊のおん大将にせよ、それで目が覚めないはずはなく、
「ゲッ、ペッ……」
と、寝ぼけながら、ジャリジャリする口をこすったが、ふいと天井を眺めると、いっぱいな星が見えたので、あっと驚いて、さらにまた少し目を覚ました。
馬糧小屋にだって屋根はある。
そんなに星が見えるという法はない。
事実、よくよく目をあらためてみると、それは星に似て星の光ではなく、屋根裏の隙間や節穴が、明るい空の光線を透かして、星のように見えたのであった。
だが? ……蛾次郎はジッと息を殺しはじめた。
星どころじゃない、節穴どころの沙汰じゃない。
変なやつがいる! 変な人間が屋根裏の梁(はり)に、取りついている!
闇に慣れた蛾次郎のひとみには、ようやくそこの屋根裏が、怪獣のような黒木の梁に架け回されてあるのがうっすらとわかった。そのあやしげな一人の人間は、蛾次郎がここへ入ったとき、上へ身を避けていたのであろう。
今になって知れば、馬糧小屋の天井の梁につかまって、じっと身動きもせずにいる。
その足元から落ちた土。
……どうりで、ここへ寝ころんだとき、やけに麦わらの寝床があたたかすぎたわけだ。
「だが、誰だろう?」
少し気味が悪くなってきた。
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