初級翻訳・神州天馬侠 第148話

吉川 英治

城内の者ならば、なにも好んであんなところにひそんでいる必要はあるまい。
第一、なんだかその影も大人にしては少し小さい。
「ははあ」
思い当たることがある。
奥庭で殿さまが飼っている猿――あの三太郎猿じゃないか。とすれば、抱いて寝てやろうか、あいつはおもしろい。
と、蛾次郎がムックリと起き上がると、猿だと思った梁の影は、はなはだ猿らしくなく、きりっと構えをとって、上から蛾次郎のようすを見つめている。
しかも腰のあたり、屋根の破れから漏れる光線に、チカッと光るのは刀のつか頭(つかがしら)ではないか。
とたんに、
「おお!」
と蛾次郎はわらを散らして飛びあがった。
「やっ」
と、天井の小さい人影も、リスのごとくべつの梁へ飛びうつった。
出会ったり! 火独楽と水独楽、双方の持ち主。上にひそんでいたものこそ、どうして、いつどこからこの躑躅ヶ崎の郭へしのびこんでいたのか、まぎれもあらぬ鞍馬の竹童。
その時、鷲をよぶ高楼の笛はまだ、忍びやかに遠音であった。

勘助流火合図

一

奇遇といおうか、皮肉な偶然といおうか、じつに人間の意表をつくことは、わずか十坪か二十坪の天地にも、つねに待ちぶせているものだ。
近江竹生島の可愛御堂でつかみあいの喧嘩をやってから、菊村宮内に仲裁をされ、その後、小太郎山落城のまぎわに別れたまま、おたがいにその生死や消息をうたがいあっていた蛾次郎と竹童。
ところもあろうに、こんな馬糧だらけの馬糧小屋のなかで、いきなりぶつかりあおうとは、両童子、どっちも夢にも思わなかったことにちがいない。
「おおっ!」
「やっ!」
とふたりの驚き。
ピュッと水火両性がはじきあって飛んだように、はねわかれた暗中ふたつの影。
双方しばしは天井と馬糧のなかとで、息をこらし、らんらんたる眼光をにらみあっていたが、やがてこれこそ、梁の上から鞍馬の竹童、じっと彼なることを見さだめて、
「うーむ、おのれは、蛾次だなっ」
とうめくがごとく叫んだ。
「そうよ!」
蛾次郎もすばやく水独楽をふところの奥にねじこみ、代りにあけび巻の錆刀をもって構えをとり、柄に手をかけて屋根裏の虚空をにらみつけた。
「――下りてこいっ!」
と声いっぱい。
あいかわらず鼻息だけはすばらしい。
「おお、ゆくぞ」
「うむ、こい、こんちくしょう」
とどなり返したが、ガサガサ……と腰の下の馬糧のわらがくずれるとともによろついて、もう蛾次郎は臆病風に吹かれ、あたまの上へいつ落ちてくるかわからない敵のよけかたを考えていた。
だが、これを勝負の前兆とはみられない。
蛾次郎の争闘力は、いつもこの腕よりは口である。
度胸よりは舌である。
三尺の剣よりは三寸の毒舌、よく身をふせぎ敵を翻弄し、ときには戦わずして勝つことがある。
「さあ、おりてこい、野ねずみめ!」
そろそろその舌の鞘をはらって、蛾次郎、口ぎたなくののしった。
「うまく罠にかかりやがったな。
どう血まよったのかしらないが、自分から罠の袋へはいりこんでくるうすノロがあるか。
かわいそうに、はいったはいいが、躑躅ヶ崎のご門内、西へも東へもぬけだす工夫がつかないで、メソメソべそをかいていやがったんだろう、ざまを見やがれ! いまにおれの親方や大久保さまの侍たちを呼んできてやるから、しばらくそこで宙乗りをして待っていろ」
「待てっ、蛾次公!」
「大きなことをいうない」
「うごくとゆるさぬぞ」
「なにを」
「この小屋をでてはいけない」
「伊那丸の間者がまよいこみましたと、おくのご殿にどなってやるのだ。
待っていろ、そこで!」
「おお、知らせるものなら知らせてみろ、この火独楽がすっ飛んで、その頭の鉢を木っ葉みじんにくだいてやるから」
「けっ……な、生意気な……」
とはいったが蛾次郎、上を見るとこわかった。
思わずブルブルッと足がすくんだ。
まだ竹童のこんな必死な顔をかれは見たことがない。
梁のうえに身をかがめ、片手を横木にささえ、右手に火独楽をふりかぶって、うごかば、いまにも発矢と投げつけそうな眼光。

二

いかにも蛾次郎が身震いをおぼえたはずである。
気はおもてにあらわる。
今宵こそはと最後の死をけっして、石門九ヵ所のかためを越え、易水をわたる荊軻(けいか)よりはなお悲壮な覚悟をもって、この躑躅ヶ崎の館にしのびこんだ竹童であった。「動いてみろ」
 そう言って、竹童は火独楽を握りしめ、蛾次郎の頭蓋骨を砕くつもりで構えた。
 もしそれで仕留められなければ、般若丸の晃刀を梁の上から抜きざまに、一気呵成に飛び斬りにしてやる。それでも討ち漏らしたら、組み付いてでもその喉首を締め上げてやる。この馬糧小屋の外へ奴を逃がしては、今日までの臥薪嘗胆が水の泡ではないか――鞍馬の竹童はそう心に決めていた。
 自分は決死の覚悟、相手を見るや必殺の構え。この躑躅ヶ崎の館に囚われている咲耶子を救い出さなければ、男として、鞍馬の竹童として、どうして再び伊那丸や仲間たちの顔を見られようか。そう考えて忍び込んだ胸中の強い願いが、まるで燐光のように眼差しに燃え上がっていた。その恐ろしい形相を暗い屋根裏の梁の上に見上げた蛾次郎が、口では威勢のいいことを言いながらも、一目見るなりブルブルと震え、膝の関節がガクガクと外れそうになったのは無理もなかった。
 神伝の火独楽がいかにおそろしい魔力を持っているか、誰よりも同じ水独楽の持ち主である蛾次郎はよく知っている。「あいつを頭に打ち付けられてたまるものか」と、思わずひるんでしまう。
 おまけに自分は下、相手は上という、足場において勝目がない。
 二人は黙り込んだまま、一刻一刻が過ぎていく。蟇(ひきがえる)がナメクジに魔術をかけるように、すっかり相手の気力を吸い取ってしまった竹童は、やがて一尺、二尺と梁の上を這い渡り、蛾次郎のすぐ脳天のところに片足をぶらりと垂らした。
「あッ!」
 と蛾次郎が腰を立てた途端、その足に肩を蹴られた。
 どすん! と藁の山に腰をついたが、無意識に「うぬっ」とばかりに竹童の足にしがみついて振り回したので、竹童も梁の上から落とされ、藁のなかに転がり落ちた。
 取っ組み合いだ!
 まるで二匹のリスのように、そこで蛾次郎と竹童は取っ組み合った。「つう!」「えいっ!」「くそっ!」と下になったりゴミをかぶったりしてもみ合っていたが、弾力のある麦藁の上なので、どちらも十分に力が伝わらない。目へチリが入ったり、ホコリを吸い込んでむせたりしているうちに、二人の童子は一体となってゴロゴロゴロと馬糧の藁山から九尺ほど下へ転がり落ちた。
 富士の須走りと藁山の雪崩に、怪我人が出た例しはない。もちろん、転がり落ちた神童と畸童、どちらもそこでは健在だったが、落ちていく間に竹童は相手の耳たぶをギュッとつかみ、蛾次郎は相手の口の中へ親指を、もう一本の指を鼻の穴へ突っ込んでいた。
「あ痛ッ」
 と叫んだのは、親指を竹童の歯で噛まれたからだろう。胸を突き飛ばして手を離し、あけび巻の錆刀をザラリと抜きかける。だが、抜くよりも投げられるほうが早かった。見事に、ドスン! と。

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