初級翻訳・神州天馬侠 第26話

吉川 英治

よいか?」
「これに乗るんですか、お師匠さま! なんだかあぶなくないですか?」
「たわけ者めが!」
 喝! とものすごい声で叱りつけた果心居士は、竹童が「アッ」と言うまにその襟首をグッとつかみ、
「エーッ!」という気合とともに、片手で力いっぱいほうり投げました!
ブーンと風を切って飛んでいった竹童の体は、まるで玉のように美しく宙を舞い、はるか向こうの築山(つきやま)の上にヒョッコリと着地しましたが、すぐにそこからピョンと駆け戻ってきて、ニコニコしながらすました顔で立っています。
「お師匠さま、またぼくにいたずらをしたでしょう」
「どうだ、どこかケガでもしたか?」
「いいえ、そんなドジな竹童じゃありませんよ。ぼくはお師匠さまから、あらかじめ『浮体の術(からだを軽くする術)』を教えてもらっていますもん」
「それみよ。なぜいつもその心構えでおらんのだ。この鷲に乗っていくのが、どうしてあぶなそうに見える。体の軽くなる呼吸法をちゃんと心得て乗れば、一本の藁(わら)よりも身の軽いものだぞ」
「わかりました! それじゃあさっそくいってまいります!」
「うむ、手紙をきちんと認(したた)めておいた。だが、もしも到着が遅れるようなことがあれば、武田伊那丸さまのお身が危うくなる。いや、あるいは小幡民部(おばたみんぶ)どのの命にもかかわる。だから急いでいくのだぞ」
「それじゃあ、高尾山に着いたら、だれにこの手紙を渡せばいいんですか?」
「高尾の奥院にかくれている『加賀見忍剣(かがみにんけん)』という者に渡せばよい。その忍剣はこの鷲の姿を毎日首を長くして待ちこがれているはずだ。また、この鷲も霊鳥であるから、かならず忍剣の姿を見つければ、自分から地におりていくにちがいない」
「かしこまりました! よくわかりました!」
「いいか、絶対に道草をしてはならぬぞ」
「はい、よく心得ております!」
 と、竹童はさっそく出発の支度をしました――支度といっても、いつもの棒切れを刀の代わりに腰にさし、稗(ひえ)と草の芽を丸めて作った保存食の団子をぶら下げただけですが、ヒラリと鷲の背中に飛び乗るやいなや、鷲は地上の木の葉をワラワラと巻き上げながら、青空たかく勢いよく飛び立ちました!

伊那丸とはちがって竹童は、日頃から「浮体の法」をしっかりと身につけているうえ、深い山の中で育ったため鳥獣のあつかいにも慣れていました。
はじめはしばらく目をつぶっていましたが、だんだん慣れてくると平気になり、はるか下の地上の景色を見まわしはじまりました。
「うわあ、高い高い! もう鞍馬山も貴船山も半国ヶ岳(はんごくがたけ)も、あんなに遠くへ小さくなってしまったぞ! おや、京都の町が右手に見えるぞ。向こうに見える鏡みたいなものは琵琶湖(びわこ)だなあ。この真下に見えているのは大津の町だ……!」
 と、すっかり夢中になっているその時です。
「ヒュッ」となにかが耳のそばをうなるようにかすめ飛びました。
「おや、なんだろう?」
 と竹童がびっくりしてふり返ったその瞬間、またもや下から飛んできたのは、白い羽がついた鋭い矢(征矢)でした! それに続いて、キラキラと光る矢の先端が風を切りながら、三の矢、四の矢と、すき間もなく唸りをあげて飛んできます。
「おやっ、さてはだれかが、この鷲を狙ってやがるな! こいつは油断ができないぞ!」
 と、竹童は例の棒切れを片手に持って、飛んでくる矢をポーンポーンと次々に打ち払っていました。しかし、そちらに気をとられていたのが大失敗でした。たいせつな果心居士の手紙を、うっかり懐(ふところ)からポロッと落としてしまったのです!
「アッ……! アアアアア……しまった!」
 ヒラヒラとひらめきながら落ちていく手紙に向かって、思わず声に出しながら身をのりだしたその拍子に、竹童の体まで、あやうく鷲の背中からふり落とされそうになりました。

三

 大津の町の弓の達人・山県蔦之助(やまがたつたのすけ)は、このあいだ日吉(ひよし)の五重塔であやしいものを射損ねたというので、それまで彼のことを「現代の那須与一(なすのよいち)だ」とまでたたえていた人々が、にわかに手のひらを返したように、さんざんな悪いうわさを立てていました。
それをうるさく思ったのか、蔦之助はそれ以来ピッタリと道場の門を閉ざし、めったに外へ姿を見せなくなりました。そして世間の悪口などどこ吹く風とばかりに、兵法の部屋にこもりきりになり、ひたすら武術の研究に没頭していたのです。
その日も、静かに兵書のページをめくっていた蔦之助は、ふと町の方からガヤガヤと大勢の人声がどよめき立つのが聞こえてきたため、本からパッと目をはなして耳をそばだてました。
するとそこへ、下僕の関市(せきし)が慌ただしく駆け込んできて、こう告げたのです。「旦那さま、旦那さま!
まあ、早く外に出てごらんなさいまし。とってもすごくて立派な大鷲が、比叡山の後ろからすごい勢いで飛び回ってきていますよ。
早く、早く!」
「鷲だって?」
蔦之助が部屋から庭へと軽やかに飛び出し、大空を見上げると、なるほど関市が大騒ぎしたのも納得の、これまでに見たこともないほどの黒い大鷲が、比叡の峰の裏手から真っさかさまに大津の空へと降りてくるところでした。
「関市! 張りの強い弓を早く持ってこい! それと太い矢を七、八本だ!」
「へいっ!」
関市が大慌てで持ってきたのは、節が巻かれた籐(とう)の弓に、くすね(滑り止め)を引いた弦がしっかりと張られた強弓でした。
取る手も惜しいとばかりに、槙(まき)の葉の形をした鏃(やじり)の太矢をつがえた蔦之助は、空に向けてギリギリと力いっぱい弓を引き絞ると、見る間に一の矢を放ちました。プツンと弦が鋭い音を立て、すぐに関市が次の矢を差し出します。
それを受け取って、さらに次々と矢を射る蔦之助。
その素早さとあざやかさは、目にも留まらないほどの速さでした。
しかし、その矢は二度目以降、すべて空中で跳ね返されて二つに折れ、ハラリ、ハラリと地上へと落ちてきます。
「間違いない、あの鷲の上には誰かが乗っているぞ!」
蔦之助とて、最初から鷲を射落とすつもりなどありませんでした。
ただ、その空飛ぶ不思議な人物をどうにかして地上へ降ろすことができれば、日吉の塔の上にいたあの謎めいた奇妙な人間の正体もわかるかもしれないと考えたからです。
ヒュウヒュウと虹のようにたくさんの矢が放たれましたが、ほんの瞬く間に大津の町の空を斜めに横切った大鷲は、その立派な姿を琵琶湖の方へと飛ばしていきました。しかし、その途中で何か白い物をヒラヒラと落としていったのです。
それを見て、
「よしっ!」
と蔦之助は弓を地面に投げ捨てると、紙切れが落ちていった場所めがけて、息もつかずに駆け出しました。
鳥が飛ぶような速さで町はずれに出た彼は、強い願いが通じたのか、ある原っぱに舞い落ちた紙切れを無事に拾い上げました。
手に取って開いてみると、それは芭蕉紙(ばしょうし)に包まれた一通の手紙でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました