初級翻訳・銀河まつり 第3話

吉川 英治

七之助と」
彼女はあわてて隣席の者の前へ逃げました。
「黒田様、おひとつ」
そして席順に次へ滑っていき、
「長沼様、林様、いかがでございますか」
後ろの方で慎吾がまだ何か言っているのを聞こえぬふりをして、急いで父の兵助の前まで来ると、訴えるように、
「お父さま、お酌を」
と、目で甘えました。
「うむ」
と兵助は膝に組んでいた指を解いて、むっつりと娘の酌を受けながら、
「お芳、あとでわしの部屋までちょっと来てくれい」
「はい」
彼女は、父の視線が自分に注がれているのを感じました。
抑えようと努めた動悸が、かえって銚子を持つ指先に出て、カチカチと父の杯を鳴らしました。
「お、来たようだぜ」
「七か。おう、七之助だ」
その時、末席の方がガヤガヤし出したので、思わず目を向けると、今やっと顔を出したらしい七之助の姿が、煙草の煙に霞んで見えました。

五

酒が入ってみると、煙火師渡世の者はみんな筋金入りの道楽者ばかりです。
飲むことも飲むが、話が面白い。
膝を崩せない五人の侍は、だんだんと存在感が薄くなっていきました。
頃合いを見て、父の兵助が目で招いたので、お芳はおずおずと奥へついて行きました。
薄暗い書斎でした。
――そこへ、お座り。
ここで見ると、父の目は急に優しくなっています。
けれど、そこには孤独の涙と、厳しさをもった優しさがありました。
兵助の声はかすれていました。「おまえな……」
「はい」
「まさか、七之助と、妙な仲になっておるのではあるまいな」
「ええ」
「『ええ』では分からん」
「それは人の陰口でございますよ」
「たしかに陰口かもしれんな」
「お父様の目を盗んで、そんなことはいたしません。ただ……」
「ただ?」
「……いろいろと相談を受けるものですから」
「どんな相談をだ」
「今度の仕事のことで、七之助さんは、藩のお侍の方よりも、戸狩の誰よりも、一番命がけで、苦しそうにしているんです」
「それは、苦しんでもおろう。普段は博打と酒しか能のないやつだ。それが仲間内で、若いのに名人だとか上手だとか持ち上げられているだけに、今回のような大事な場面では、いやでも人並み外れた腕を見せなければ、この村にも居場所がなくなってしまうからな。……で、何をもくろんでいる様子か」
「今までにない尺二寸の大玉に、色も、今まで誰も出したことのない赤と紫の火光を仕込んで、三河の連中を驚かしてやるんだと言って、それはもう、見ていてお気の毒なくらい懸命になっております」
「赤の火色を出すだって?」
「……ですから私も、つい、力づけてあげたいと思って」
「その先のことは言わんでもよい。分かっている。……おまえ、七之助に頼まれて、わしの書庫から門外不出の書物を幾冊か持ち出したな。そして、彼に貸してやったな」

お芳は、そのまま畳の中へ沈み込んでしまいそうな顔をしました。

「あんな無学な男に、わしの書物を見せたところで、なんになる」
「…………」
「もう貸してしまったものは仕方がない。だが、あれは大事な書物だ。教来石流(きょうらいしりゅう)の煙火の秘本だからな。小布施の高井鴻山だの、松代の佐久間象山だの、幾たびもせがんで来たが一度も見せやしなかった。……それとなく、早く取り戻せよ。よいか」
「……すみませんでした」
「七は短気な男だから、わしが言ったとはしないほうがいいぞ。おまえが気がついた、というふうにな……」
「はい」
「分かったか」
「分かりました」
「それだけのことだな、おまえと七との間は」
「え……」
「じゃあ、ついでに言っておくが、もうあの男に近づいてはならん。悪い男ではないが、おまえのためにはならん」
「お父様、なんでもないことなんですよ!」

お芳は、甘えるときのような、少し語尾の上ずった声で言いました。

「……誰がそんなことを言うのでしょう」
「だから、慎まねばならん。おまえもそろそろ嫁がなければならない年だ。実を言うと、話もだいぶ進んでいる。この間、沓野(くつの)村からの帰り道に立ち寄られた象山先生――あの松代の佐久間修理殿じゃ。そのお方が、仲人をしてやるとも言っておられる。相手は次席家老の御子息だぞ。決して、おまえにとって不幸な話ではないと思う」
「でも……お父様」
「わしが、どんなにおまえのことだけを、この世の気がかりにしているか」
「…………」
「分かってくれるか」
「…………」
「分かってくれい」
「…………」

厳かでもあり、苦くて甘い沈黙でした。兵助はぼろぼろと泣きました。
お芳は、乳をむしりたいほど胸がいっぱいになっていながら、老いた父の弱り切った嘆きを見ると、かえって涙が出ませんでした。
そしてただ、四、五日前にこの家へ立ち寄って、しばらく父と話し込んでいった、松代藩の三村利用係という役目をしている西洋かぶれの儒者を思い浮かべていました。
その儒者は、馬のような長い顔をしていました。沓野の百姓にワインを造らせてみたり、温泉場の排泄物から何とかいう西洋薬をとる試験をしてみたり、また、この近郷の山に檜(ひのき)の苗を植えると言って百姓を無理やり動員したために、「佐久間騒動」という一揆を引き起こしたりした象山という学者は、あの人だったか……などと、彼女はそんなことを考えていました。

するとその時、

「喧嘩はよせ!」
「喧嘩じゃない!」
「無礼だ!」
「無礼じゃない!」

と、寄合のある座敷の方で、怒鳴り声と物音、そして何やら凄まじい空気が、屋敷全体を震わせ始めました。

六

兵助はすぐに出て行きました。お芳も、何事かとあとについて、廊下の隅に立ちすくみました。ほとんどの者は話も済み、酒も堪能して帰ったあとです。
見ると、蜂屋慎吾と七之助が、お互いに顔を真っ青にして口論しているところでした。今にも腕力沙汰になりかねないほどの荒々しさで、残っていた少数の村の者と四名の藩士が、双方のそばに立って、

「まあ、およしなさい」
「七! やめろ!」

と、押しわけていました。

「不埒(ふらち)なやつだ、武士に向かって」

と、慎吾はなかなか怒りが収まりません。七之助も一本気な性格で、退く気配もなく、

「仕事の上では、武士も百姓もあったもんか! いい仕事さえしれやいいんだ!」

と、叩きつけるように言いました。

「生意気を申すな、生意気を。学問は進んでいるぞ。近ごろの砲術の進歩を見ろ、蒸気船の発達を見ろ!」「――いいか、花火だからといって、古いやり方でいいということはない。大砲も花火も、同じ『火術』なのだから」

「よしてくれよ。そんな理屈、戸狩(とがり)の連中なら三歳児でも知ってるぜ」

「知っているなら、なぜ藩から支給されている硝石(しょうせき)や薬品を使わないんだ。わざわざ長崎から高値で取り寄せた材料を使わずに、汚らしい墓場なんかを掘り返したりして」

「な、何を言っていやがる!」

「墓場を暴いて、死人の腐肉から一体何をとるつもりだ。呆れた愚か者め! 貴様は頭が古すぎるんだ!」

「当たり前だ。俺は洋学者じゃねえ、煙火師(えんかし)だ」

「三河へ探りに行った者に聞いてみろ。煙火師でも三州の連中は、藩から指導を受けるまでもなく、進んで薬品の調合に洋式を取り入れている。

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