初級翻訳・神州天馬侠 第134話

吉川 英治

「水晶! 水晶!
紫水晶は お染にやンべ
お染かんざしに 挿すよにサ
黒い水晶は 婆さまにやンべ
婆さま磨いて お寺にあげて
文殊菩薩の 入れ黒子」

「なんだ、あいつは」
 と、びっくりして振り返ったのは、別のことでぼうっとしていた金鉱山掘夫や熊蔵たち。
沢から平坦な道へ飛び上がった途端、大勢の荒くれ男や侍たちが一箇所にたむろをしていたので、蛾次郎も急に間が悪そうな顔をして、でたらめな水晶掘りの歌を止めてしまった。
その蛾次郎はともかくとして、卜斎の風体や人相がひと癖ありそうに見えたので、伊部熊蔵は雁六に目配せをして、
「オイ、待て待て」と呼び止めた。
他郷に入っては争うべからず、利ある争いもかならず不利――という諺は、昔の案内記などには必ず記され、戒められていることだ。
ましてや相手が怪しそうだからと、卜斎も悪びれる様子もなく、
「はい」と素直に腰をかがめた。「どこへ行くんだ、こんな時間に?」
「甲府へ参ります」
「何をしにだ?」
「近ごろ、甲府のお城は代が変わり、たいそう暮らしが良くなったという噂を聞きましたので」
「ほう、それなら貴様は、武田家の時代よりも、今の徳川の世のほうがありがたいと思って行くのか?」
「さようでございます。昔からのご縁もありまして、私はどこでもよいから徳川様のご領地に住みたいと願っております」
「ふむ……そうか……」
 伊部熊蔵は、そう言われて悪い気はしなかったようだ。
卜斎の目から見れば、この山目付らしき侍が、どこの大名に仕えている者なのかくらいは、こうして腰をかがめて対面した瞬間に見当がついている。
「して、職業は何だ? 実はこの街道は、今日少し物騒なことがある。先へ行っても通してくれるかどうかわからんぞ」
「へえ、それは困りましたな」
 卜斎は、ぺしゃんこな鼻に皺を寄せて言った。
「私はもと富士の裾野におりました鏃(やじり)鍛冶で、徳川様のご家中のお仕事をした者でございますから、なんとか無事に通れるよう、お計らいいただけませんか」
「ふむ、それはしてやってもよいが」
 熊蔵が通行手形でも書いてやろうかと考えたその時、隣の雁六が「およしなさい、もし下手な回し者だったら、裏をかかれて大変なことになりますぜ」と目配せをした。
「あ、いけませんな」
 卜斎は、その顔色から相手の腹の底を見通した。
そこで今度は如才なく、話の矛先を変えて、なぜ物騒なのか、その事情を探ってみようと考えた。
「いいえ、なぜかと申しますと……もしご都合が悪ければ、私としましても命が大事です。少しあとへ戻って、どこか安全な百姓家にでも泊めてもらいますので」
「ふむ、神妙なやつだ。なろうことなら、そうしたほうが貴様たちのためだろう」
「ですからお武家様、失礼なことを伺いますが、あなたがたはいったい何のために、日が暮れるというのにこんなところでたむろをしていらっしゃるのですか? ……拝見すると、何やら困り果てているご様子にも思われますが」
「実は、まことに少し困惑しておるのだ」
「できることなら、ご相談に乗らせていただけませんか。見ればどなたもお若い方。およばずながら、私の方が年をとっている分、いくらかはお役に立てることもあるかもしれません」
「じゃあ聞いてみるが、鍛冶屋」
「へい」
「少し商売違いの話だが、お前の口ぶりでは、裾野からこの辺りのことには詳しそうだな。知っていたら教えてくれ」
「ええ、なんなりとお尋ねくださいまし」
「この小太郎山だが――」
 雁六が指さすと、蛾次郎はもとより卜斎も、思わずギョッとした。
この二人が「とりあえず甲府へ行ってみよう」と定めて歩いてきたものの、実は道に迷い、今どこを歩いているのかさえ見当がつかない状態だったからだ。伊那丸の一党が立てこもる小太郎山の砦の、まさに真上にいるとは夢にも思わず、身の毛がよだつ思いだった。
「へえ、ここが例の小太郎山で? なるほど」
 と、とぼけて岩々が天を削るような山影を仰ぎ見ながら、
「深いことは存じませんが、噂に聞けば、この上には武田の残党が立てこもっている山城があるそうで」
「そうだ! その砦へ攻め入るために、実は非常に苦心しているところなのだ」
「上に人がいる以上は、必ずどこかに道があるはずでしょう」
「あるにはあるが、間道から不意に中へ飛び込みたいのだ」
「それならお安いことではございませんか」
「それが、なかなか見つからぬのじゃ」
「地相、岩脈、山骨、樹木の姿。それらをよく観察すれば、どんな隠し道でも必ずわかるものです。ことにここには野呂川があり、そこへ落ちる山瀬の水も流れております。水理を検討していけば、それくらいのことが見つからぬはずはありません」
「お前、たいそう詳しいな」
「は、は、は、は、は」
 卜斎も、われながらおかしくなって笑い出した。
柴田権六に召し使われていたころ、攻め込む敵地へ先に入り、その地勢や水理を調べ尽くすのが自分の仕事だったのだ。日本で何人と指を折られる築城の地学家である自分にとって、これくらいのことは、表看板の鏃を打つことよりずっとたやすい。
卜斎は瞬時に考えた。
「世間は広く歩いてみるものだ。秀吉にはにらまれている身の上、家康の恩顧を受けるほかに生き道はないと考えていたが、これは偶然とはいえ、願ってもない好機にぶつかったものだ」「どうですナ、お武家さま」
 卜斎は、自分からそう切り出しました。
「それほどお困りならば、ひとつ、わたくしがこの砦の頂上へ出られる道を案内してあげようではございませんか」
「なに、貴様にわかるのか?」
「この麓(ふもと)を十町ばかり歩いてみれば、きっと探し当ててごらんにいれます」
「こりゃ天の助けだ! そちにその間道がわかるというのなら、ぜひとも案内してくれ」
「よろしゅうございます。では、しばらくそこで一服吸ってお待ちください。わかりましたら松明(たいまつ)を空へ投げるといたしましょう。……これよ、蛾次!」
「ヘイ」
「おまえ、あちらの方の持っている松明をお借りして、わたしのあとからついておいで」
「親方ア」
「なんだ」
「早く甲府へ行きましょうヨ」
「待て待て、せっかくご一同がお困りなのだ。ひと働きしてあげよう」
「だっても……」
「なにが、だってもじゃ」
「おらア、もうお腹がペコペコなんだもの」
「たわけめ! なにを言うか」
 向こうで人足たちが、焼いたスルメや焼米を頬張っているのを見て、伊部熊蔵はその鼻っ柱の強い男が空腹なのだろうと察して、「オイ、誰かこの鼻ったらしに、なにか食い物をやってくれ」と言いました。
 蛾次郎はニヤニヤするのを隠しながら、「親方、ここが小太郎山とは驚きましたネ」と思い出したように小手をかざしました。

 緋縅(ひおどし)谷の少女たち

一

 扇縄(おうぎなわ)の水の手――山城の貯水池を指して、そう呼ぶのです。
 今。小太郎山の砦は毒にまわされていました。
 その扇縄の区域へ、裏切り者がひそかに毒を沈めたため、夕方の兵糧時にすべての者の腹の中へ、恐ろしい酔魚草(すいぎょそう)の毒水がまわってしまったのです。

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