そうして鐘巻一火(かねまきいっか)の控え場へ、凱歌を奏して引き返してきたのはいいが、あれほど争奪の焦点となっていた、肝心の咲耶子その人の姿が、いつの間にか失われていた。
門人たちは驚いて、「たった今まで、ここで手当を受けて静かにもたれかかっておられたのに」と、血眼になって四方を探し歩いたが、影も形も見当たらない。
一火は申し訳ないと、龍太郎や忍剣たちの前に両手をついて謝罪した。あまりに深く責めれば、腹を切っても詫びかねない気配なので、四人は呆然と顔を見合わせるだけで、一火を責める気にもなれない。
「計ったのだ。長安めの、計略だ!」
小文治が唇を噛みしめて叫ぶと、蔦之助(つたのすけ)も、
「そうだ! ああだこうだと言って時間を稼ぎ、騒ぎ立てたのは、この隙をうかがうための徳川方の策だったのだ。おそらく咲耶子の身は、奴らに奪い去られたに違いない」
龍太郎は黙然とうなだれていたが、
「我々が浅はかだったのだ。彼らを正しい武門の人間と考えて、試合や争論に汗を流したのが愚かであった。これだけの力を尽くしながら咲耶子を奪われたのなら仕方がない。一度ここを退いて、また後の対策を考えるとしよう」
そう言わなければ一火の立場がないと察して、彼が他の三人に目配せをすると、忍剣は何も言わずに鉄杖を小脇に抱えて、元の場所へ駆け戻った。その顔色をチラと見て、龍太郎は追いすがりながら、
「忍剣! 貴様は顔色を変えて、どこへ行こうとするのだ」
息せわしく、その袖を掴んだ。
忍剣はそれを振り払って、ただ一言、
「放せ!」
と語気が鋭い。
「いや、放さん。俺は放さんぞ」
「なぜ、俺のすることを妨げるのだ」
「貴様は、その抱えている鉄杖で、今日の鬱憤(うっぷん)を晴らそうという気だろう」
「言わなくても知れたことだ。この晴れがましい大講会の広前で、固く約束を結んだ試合でありながら、さまざまに難癖をつけたあげく、その裏をかいて咲耶子の姿を隠してしまうという言語道断な行いを、黙ってこのまま見て引き下がれるか。……龍太郎! お前は退くなら退くがいい、俺は徳川家の蛆虫(うじむし)どもを、ただ一匹たりとも、この御岳から下へ生かしては下ろさん」
彼の額には、炎のような青筋がうねっていた。かつて、忍剣の形相がこれほど凄まじく冴え渡ったのを、龍太郎も見たことがないくらいだった。
「こらえろ! こらえてくれ、忍剣! この山の掟を知らぬか。兵法大講会の三日間は、たとえどんなことがあっても血を見るなかれという、厳しい禁断を知らぬのかッ」
「ええ、もうその堪忍はし尽くした。これ以上の我慢はできん」
「だから貴様の短慮を、伊那丸(いなまる)さまも民部(みんぶ)殿も、常日頃から心配されるのだ。もしものことをしでかしてみろ、貴様ばかりではない。仲間の俺たちが困るのだ。こらえろ、こらえてくれよ、忍剣!」
「ウーム、こらえたいが、だめだッ。もうだめだッ! 放せ、そこを!」
龍太郎を突き飛ばして走り出した彼を、もうどんな力を持つ者でも、押しとどめることはできそうになかった。
三
石見守長安は、櫓(やぐら)の者に、慌てて法螺貝(ほらがい)の音を高く吹かせた。
忘れていたが、いつのまにか、日がどっぷりと暮れていたのだ。
だが、貝の合図を待たずに、群衆はあのもめごとのうちに、残らず山を下りてしまったらしい。
「まずは、大講会の二日目も、これですんだというもの。ウーム、疲れた」「おい、足軽、篝火(かがりび)を焚け。夜の篝火を」
こう言いながら、狩屋造り(かりやづくり)の奉行小屋へ入ると、石見守(いわみのかみ)はすぐに平服に着替え、炉端へ床几(しょうぎ)を運ばせた。そこへ、菊池半助と呂宋兵衛(ろそんべえ)がちらりと顔を見せた。二人が何かをささやくと、長安は「ふ……そうか」と頷いた。その笑顔を見た途端、二人はすぐさま影を消した。先ほど運び出された駕籠(かご)の後を追って、夜道を急いでいる様子だった。
やがて、どっと賑やかな笑い声がそこらじゅうで弾け出した。奉行小屋と棟続きの目付小屋でも、詰めている侍の仮屋でも、足軽の溜まり場でも、また浜松城の者たちがいる幕の内でも。長安の悪知恵がひそかに耳から耳へと伝えられ、皆がどっと囃し立てたのだろう。あちらでもこちらでもドカドカと篝火を燃やし、徳川方の空気は急に陽気になり出した。
が――しかし。そう見えたのも束の間だった。突然、奉行小屋の柱がすさまじい音を立てて折れたかと思うと、血か肉か、白木の羽目板へ真っ赤なものが牡丹の花のように飛び散った。
「狼藉者(ろうぜきもの)ッ!」
という声が響いた。一瞬のうちに、恐ろしい混乱の幕が開いた。逃げる者、喚く者、武器を取る者。そして、あちこちで同士討ちが始まった。修羅場である。たちまち、あたりは血の瓶を割ったかのような惨状となった。
立ちふさがる侍や足軽たちを、二振り三振りと鉄杖(てつじょう)で叩き伏せ、加賀見忍剣(かがみ・にんけん)は夜叉のように奉行小屋の奥へと踊り込んだ。生半可な武器で彼を食い止めようとする技など、かえって彼の鉄杖に勢いを加えるようなものだった。そして、その前に立った者は皆、血を吐くか手足の骨を砕かれ、満足に逃げ切ることもできなかった。
「なに、なに? 何が起きたのだ!」
石見守は、はじめその物音を足軽部屋のいざこざか何かと心得ていたようだった。しかしそこへ、「忍剣がッ! 忍剣が暴れ込んできたッ!」と、血に染まった武士たちがなだれを打って転がり込んできたので、そばにいた四、五人の家臣とともに「さては」と、にわかに度を失ってしまった。
だが、彼は張らざるを得ない虚勢を張り、「ええい、たかが知れた乞食坊主のひとりぐらいに、この狼狽(ろうばい)はなんだ! 取り囲んで絡め捕ってしまえッ!」と叱咤した。
しかし――その言葉と同時に、目の前の炉の中へ、ひとりの試合役人が逆さまに飛び込んで灰神楽を巻き上げるのを見ると、彼はつまずきそうになりながら、狩屋造りの小屋の裏へと逃げ出した。
「待てッ、長安!」
放たれた豹のごとく、その姿を目がけて忍剣の跳躍がパッと追う。
「あッ」
と、長安が卑怯な声をうわずらせた瞬間、狩屋造りの板戸や庇(ひさし)が木っ端微塵になって、メキメキと飛び散った。
「ウーム、徳川家の衆、浜松の衆、出合えッ、出合えッ! 狼藉者だ、狼藉だ!」
威厳もなく夢中で叫びながら、彼は幕の裾をくぐって浜松城の剣士たちがいる溜まり場へ、四つん這いになって逃げ込んだ。朱槍、黒槍、樫(かし)磨きの槍が、即座に幕を払って忍剣を包囲した。
「売僧(まいす)ッ、御岳(みたけ)三日の掟を知らぬか!」
「黙れ! 武門の誓約さえ踏みにじる非武士どもに、御岳の神約を口にする資格はない!」
言下に鉄杖を見舞うと、霜と並べて突きかかる槍も、ことごとく折れ飛んだ。葵紋(あおいもん)の幔幕(まんまく)へ霧のような血潮を吹きかけて、見る間にいくつもの死骸が虚空を掴む。怒れる獅子の前には、何ものも阻害するものはない。
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