初級翻訳・神州天馬侠 第180話

吉川 英治

これはどうしたものか」
両者の間に立って、彼が途方に暮れて腕組みを固く結んだその時、
「いや、しばらく!」
一党の人々を押しなだめて、そこへ出てきたのは遠駆け試合の当の本人である巽小文治でした。
黒々とひと癖ある顔を並べた先方の者たちをじっと見回して、
「――いかに浜松城の武士ども、たとえ今の遠駆けを勝敗なしとしたところで、もう咲耶子はこっちへもらい受けたぞ。人はあざむき得るとも神はあざむくべからず。疑わしくば首を集めて、とくとこれを見るがいい!」
と、例の鳥居の額板を彼らの目の前に突き出しました。

刑罰の千年山毛欅(ぶな)

一

もう、議論の余地はありません。
すべては「白鳥霊社」の額板が、雄弁に解決をつけていたのです。
そこには、立派に蔦之助の射当てた矢の跡が残っていました。
彼の冤罪はそそがれました。そして、競射に不当な勝点を奪っていた徳川家は、完膚なきまでに打ちのめされてしまいました。
いくら横車を押そうとする徳川方の者でも、その証拠を小文治につきつけられては、二の句を継ぐ者はいませんでした。検証役の鐘巻一火は、公平な立場で最後の判断を下し、蔦之助や小文治たちにこう言いました。
「約束どおり、咲耶子の身柄はおのおのにお渡しすることにする。さあ、こちらへ来てください」
一火が先頭に立って、自分たちの控え場である幕のほうへ案内しようとすると、いまいましげに睨みつけていた大久保石見守が、
「まだ疑わしい点がある。待て、咲耶子を渡すのはしばらく待て」
と、未練たらしく怒鳴りました。
蔦之助や小文治は、憤然と顔を赤くして言い返しました。
「なんだ、このうえまだ何か苦情があるというのか」
「おお、第一に疑わしいのは、あの額板だ。なるほど『白鳥霊社』と彫ってあるのは間違いないが、果たしてこの矢の跡が蔦之助の矢によるものか、それもにわかに確かとは受け取れん。ことに、大講会の第三日の試合も明日残っていることゆえ、咲耶子の身をどうするかは、明日に延ばしても差し支えあるまい。その間に、今申した疑問の点を当方でも十分に取り調べておくから、それまで待てと申すのだ」
いかにも無理な、知恵の足りない言い分です。
一火は、取るに足らない言葉として聞き流し、さっさと立ち去ろうとしましたが、徳川家のほうからは次から次へと味方が集まってきて、わざと事をこじらせるように、石見守の尻馬に乗って騒がしく苦情の声を上げ始めました。
「不当だ!」
と、一火の肩を突く者がいます。
「そちらにやましいところがないのなら、なぜ明日まで待てないのか」
と、雑魚のように群がってきて、龍太郎や蔦之助たちの進路を邪魔する輩も現れました。
これが「血を流すなかれ」という刃傷沙汰を禁じられた御岳の神前でなければ、こんな連中に勝手な真似はさせないのですが――と四人はじりじりとした思いで、そばにいた竹童も歯ぎしりをしながら見つめていました。
蛾次郎も、卜斎の背後からひょっこりと首を出していました。
そして、人前もはばからず徳川家の肩を持って、
「なんだ、そんなバカな法があるものか。やれやれ、さっさとやっつけろ!」
と煽るような野次を飛ばしたので、卜斎にピシャリと額を叩かれて、黙り込んでしまいました。
なにしろ、収拾がつかない騒ぎです。刀を抜けない場所なだけに、むやみに声ばかりが大きくなり、理屈もめちゃくちゃな罵声が、一火と龍太郎たちを取り囲んで身動きもさせません。
「すわ、何か始まったぞ!」と、その騒ぎを聞きつけて、上杉家、北条家、前田家、伊達家、その他の溜まり場からも数え切れないほどの剣士たちが駆けつけてきました。
もちろん、鐘巻一火の門人たちも、ただ見ているだけではありません。
師匠の身に何かあってはと、控え場の幕を空にして、こぞってその場へ飛び込んできました。
すると、「渡せ、渡さない」という苦情で人だかりが渦を巻いて揉めている隙に、石見守が目配せをすると、呂宋兵衛と菊池半助の二人が、ひょいとどこかへ姿を消したことに、誰一人として気づく者はいませんでした。
伊賀者の頭である菊池半助は、あのリスのような素早い動きでどこへ行ったのかと思えば、やがて一人、鐘巻一火の控え場の裏手に回り、鉄砲を立てかけるための幕の隙間から、中の様子を覗いていました。
外の騒ぎに門人たちが全員駆り出されたため、幕の中には人影もありません。
ただ、咲耶子一人だけが、柱にもたれて休んでいました。
「ウム、いるな」
そう頷くと半助は、幕を上げていきなり中へ飛び込みました。
その瞬間、「あっ」と漏れた咲耶子の声が、糸を切ったように途中でポツリと途絶え、それっきり、あとは何の音もしなくなりました。

二

竹で網代(あじろ)に編んだ駕籠があります。山道を飛ばすには軽く、丈夫な品物です。
そこへ、先ほど忍剣の鉄杖で腰骨をドンと一撃された蚕婆が乗っていました。
あの、コウモリの翼のような女修道者の黒い服を被り、青ざめた顔をして乗っています。
「婆さん、痛いかい?」
と覗き込んだのは燕作です。
蚕婆は腰をさすりながら、
「ウーム、痛い」
と顔をしかめました。
「いまに楽にしてやるよ、お前だけ先に浜松へ帰るんだ。ご城下に帰れば、湯もあるし医者もいる。何もそんなに心配することはない」
そこへ、バタバタと足音が響いてきます。
葵の紋の幕を上げて、慌ただしく駆け込んできたのは菊池半助でした。
その右の小脇に、咲耶子の体を引っ抱えています。
不意に当身を食らったのでしょう、彼女は力のない四肢をグッタリと伸ばしていました。
「呂宋兵衛、呂宋兵衛!」
「おっ」
もう一挺の駕籠の中に、和田呂宋兵衛が隠れていました。
ヒラリと飛び出して――。
「半助さま、ご苦労でしたな」
「うむ。いい首尾だったので、なんの苦もなくさらってきた」
「お早いことには、呂宋兵衛も舌を巻きましたよ」「さすがは、伊賀者(いがもの)の頭(かしら)としてお扶持(ふち)をもらっているだけの値打ちはある」

「おだてるのはよしてくれ。……で、支度はどうだ」

「この通り。いつでも出発できる」

「では、一刻も早く行くに限るぞ。おい燕作(えんさく)、ちょっと手を貸せ」

呂宋兵衛(ろそんべえ)が身を抜いた後の空の駕籠(かご)の中に、咲耶子の体を押し込むと、その人目につく身なりの上から、蚕婆(かいこばば)と同じ黒い修道服をふわりとかぶせた。

「さあ、これでよし」

半助が合図をすると、わらじの紐を締め直していた駕籠かきたちが、バラバラと寄ってきて二つの駕籠を担ぎ上げた。

呂宋兵衛はすぐに、

「俺と菊池さまは、あとから見え隠れについていくからな。燕作、お前はとにかく駕籠にぴったりついて、御岳(みたけ)の裏道をグングンとかけ飛ばし、浜松の城下へ急いで行け」

と、手を振った。

…………

騒ぎを極めている一方では、徳川方のそんな奸計(かんけい)を、夢にも知る由がない。

どちらも引かずに争っていたが、審判の公平さと、他藩からの世論には勝てない。ついに石見守も折れた。どうしようもなく、「勝手にするがいい」と、まるで兜を脱いだような顔をして、苦情の紛争にけりをつけた。

「見たことか」

小文治(こぶんじ)は小気味よく思った。

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