初級翻訳・神州天馬侠 第46話

吉川 英治

「一大事、一大事! まんまと敵の計略にはまり、頭領の生死もわからぬほどの大崩れだ!」
 続いて逃げてきた手下たちも口々に叫びます。
「伊那丸自身が先陣を切り、小幡民部が軍師となって、もうすぐここへ攻め寄せてくる気配だ!」
 さらに間を置かず、次々と報告が届きます。
「怪しい者が二、三十人、険しい崖をよじ登って人穴の裏へ回った様子だ」
「正面の雨ヶ岳からも、軍兵の声が聞こえてきた。水門口の外でも鬨(とき)の声が上がったぞ――」
 一刻一刻と、矢のような早さで届く報告。その騒然とした空気の中へ、風に乗ってきたかのように、和田呂宋兵衛が突然姿を現しました。彼は一同の前に顔を見せるやいなや、
「何をうろたえ回っているか! 洞門を守れ、水門へ人数を配れ! 馬鹿、馬鹿、馬鹿め!」
 八方に狂ったように怒鳴り散らしました。しかし、彼自身も衣は裂け、目は血走り、顔面は青ざめていて、ひどく取り乱しているのは誰の目にも明らかでした。
 昌仙は、それ見たことかとばかりに言いました。
「お騒ぎなさるな、頭領。大方このようなことになると存じておりましたので、すでに手配は済ませてございます」
「おお、軍師よ。これからは必ずや貴殿の言葉に背くまい。どうか寄手の連中を打ち破ってくれ」
「ご安心あれ。北条流の奥義を極めたこの丹羽昌仙がここにおる以上、伊那丸ごときに人穴を一歩も踏ませることはございませぬ」
 又八は、いつの間にかコソコソと雑兵の中に姿を隠してしまいました。

三

 早くも一の洞門に鬨の声が響き渡ります。
 真っ先に攻め寄せたのは武田伊那丸でした。要所の道案内は咲耶子です。すぐ後ろから加賀見忍剣(かがみにのつけん)と木隠龍太郎の二人が、左右の部隊を率いて「えいや、えいや」と洞門へ押し寄せました。
 一方、人穴から水がドッと流れ落ちている水門口では、巽小文治(たつみこぶんじ)が精鋭の槍兵十五名を連れて水門を打ち破ろうとしましたが、頭上からガラガラと投げつけられる岩や大木に苦しめられました。
 それだけではありません。水門には頑丈な鉄柵が二重に張られているうえ、足場の悪い狭い谷間です。そのうえ全身ずぶ濡れになりながらの苦戦は、並大抵のものではありませんでした。
 裏山の険しい道に登り、殿堂へ矢を射かけようとした山県蔦之助たち弓組も、途中でおもわぬ柵に道を阻まれたり、八方に分かれた迷路に迷わされたりして、ようやくたどり着いたものの、すでに察知していた丹羽昌仙が望楼から南蛮銃の銃口を揃え、激しく火蓋を切ってきました。
 丹羽昌仙の北条流の采配と二千の野武士、そしてこの天然の要塞である人穴の賊徒らは、こうしてビクともしませんでした。
 ついに虚しくその夜は明けました。
 二日目も過ぎ、三日目になっても落とすことができません。
 ああ、いかに伊那丸が焦っても、百人足らずの小勢では、洞門ひとつ突き破ることも難しいようでした。
「民部よ、わしは今度初めて戦の苦しさを知った。浅はかな勇気に逸(はや)った自分が恥ずかしい。しかし武夫(もののふ)として、このまま退くのは残念でならぬ」
 前面の高地、雨ヶ岳を本陣としてひとまず兵を引いた伊那丸が、軍師・小幡民部と向かい合ってそう言ったのは、ちょうど九日目のことでした。「全くその通りでございます」
民部も軍扇を膝に置き、同じように無念の表情でうつむきながら、思わずこうつぶやきました。
「ああ、ここにあと二、三百の兵さえいれば、策を練り直して、一気に局面を打開できるものを……」
伊那丸も同じようにため息をつき、
「昔、武田菱の旗の下には、百万、二百万もの軍勢が招かずとも集まってきたものだが……」
「また必ず、わが君の頭上にも輝かしい日が巡ってまいりましょう。いや、この不肖・民部が命を賭しましても、必ずそうしてみせます」
「うれしいぞ、民部。しかし、こうして敵を目の前にしながら、わずか七、八十人の味方とともにこの体たらくでは……」
伊那丸が悔し涙を浮かべていた、その時です。今まで後ろで黙っていた木隠龍太郎が、何かを思い立ったかのように進み出て言いました。
「伊那丸さま。どうぞ私に四日のお暇(いとま)をください」
「なんだと? 四日の暇をくれと言うのか」
「さようです。先ほど民部殿が望まれただけの兵を、必ずその期限までに、若君の御前まで連れてまいりましょう」
「おお、龍太郎殿!」
民部はうれしそうな声と顔で応じました。
「民部、私の生涯の軍配の振るいどころ、ぜひともお力添えをお願いしたい」
「しかし、今の戦国の世において、二、三百の兵を四日で集めるのは容易なことではない。龍太郎、本当に間違いないことか……」
伊那丸は心配そうな顔をしましたが、龍太郎はすでに立ち上がり、きっぱりと礼をして言いました。
「少し考えがございますので、何事もこの胸にお任せを。ではわが君、民部殿、今日から四日後に、三百人の兵と共にまたお目にかかりましょう」
陣の幕をくぐって外へ出た木隠龍太郎は、自ら「項羽(こうう)」と名付けた黒鹿毛の駿馬にまたがると、雨ヶ岳の麓から真っ直ぐに北へと向かいました。
その姿を見かけたのでしょうか、「おおい、おおい木隠殿!」と呼びかけてくる声がありました。
馬を止めて振り返ると、本栖湖の方から槍部隊二隊を率いてきた巽小文治が、先頭に朱塗りの槍を担いで立ち、不思議そうな顔で龍太郎を見上げていました。
「おそろしい勢いで、どこへ行くおつもりだ?」
「おお、小文治殿か。私は急な大役を仰せつかり、これから小太郎山へ戻るところだ」
「ふーむ、ではいよいよ人穴攻めは断念でござるか?」
「どうしてどうして。本当の合戦はこれから四日目だ。なにしろ急ぎの旅ゆえ、ごめん!」
「おお、待ってくれ! 一体何のために小太郎山へ戻るというのだ!」
小文治が聞き返す間もなく、駿馬・項羽の影は木隠を乗せて、疾風のように遠ざかってしまいました。
難攻不落の人穴攻めは、こうしてあと四日後を待つことになったのです。
しかし、伊那丸や忍剣、民部といった七将星のほかに、果心居士の秘命を受けている竹童は、一体この大事な時期にどこで何をしているのでしょうか。
いくら呑気な竹童でも、まさか師匠の叱り言葉を忘れて、裾野の野うさぎとススキの中で昼寝をしているはずはないでしょうが、もういい加減に何かをやり出してもいい頃です。
ぐずぐずしていれば、丹羽昌仙の密使が秀吉のもとへ到着し、どのような番狂わせが起こるか分かりません。四日経てば、木隠龍太郎の吉報も届くことでしょう。
どっちにしても、ここ二、三日のうちに果心居士の命を果たさなければ、今度こそ竹童は鞍馬山から追い出されるに違いありません。

四

安土の山は焼け山となっていました。
安土城も半分は焼け崩れています。岩は赤く乾き、石垣は燻り、樹木の葉はすべてカラカラに枯れて、黒い幹ばかりが立っていました。
その石段を、ぴょい、ぴょい、ぴょいと、まるでリスのような速さで駆け上がっていったのは、竹の子笠に道中合羽をまとい、旅商人に化けた丹羽昌仙の密使、早足の燕作(えんさく)です。
途中で少し小手をかざして四方を眺め回し、彼は言いました。
「ああ、変わるものだなあ。

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