笛が――咲耶子の白い手に高く掲げられ、横に縦にと動いています。
合図なのでしょう!
それを見ると、少女の一人が何かを叫びました。
それに応えて、あちらこちらの家から、ワラワラワラと少女たちが駆け出してきます。
みんな同じ下げ髪の少女、みんな同じ年頃の少女、みんな凛々しい赤い頬をした少女。
見る間にちょうど三、四十人が、蔦のかけ橋を跳ねるように渡り、まるで花びらが散るように、咲耶子のいる向こうの峡谷へと駆けていきます!
笛は、早く早く、と呼んでいました。
緋おどし谷の胡蝶(こちょう)たちが、胡蝶の陣を組むのです。
あなたたち! 何を笑っているのですか?
一
蔦のかけ橋を一生懸命に渡り、咲耶子の姿を目指して走ってきた少女たちの群れは、見る間に近づいて、手招きされた笛の音の下へ、花輪のようにグルリと集まりました。
「――まいりました、咲耶子さま」
「なにかご用でございますか」
「いつになくお悪い顔色ですね」
「どうされました? 咲耶子さま」
「おっしゃってくださいまし、わたくしたちにできることを」
いきいきとした少女たちの瞳は、みなナツメの実のようにクルッと見開かれて――そして、まだ心配そうに、中央に立つ一番背の高い咲耶子を見上げました。小太郎山に住む咲耶子と、そこから近い緋おどし谷の者たちとは、自然といつのまにか親しくなっていました。
彼女たちはみな、咲耶子を山の女神のように慕い、咲耶子もまた彼女たちを、妹のように愛していました。
ことに彼女たちはみな、幼い頃から子守歌にも武田信玄の威徳を歌った血を受け継いでいる、甲斐の少女たちです。
国は滅びてしまいましたが、その景慕の念や愛国の情熱は、小さな胸の中で今も熱く燃えています。
現に、今彼女たちが緋おどし谷で作っている、具足や幕や旗指物、あるいは革足袋、太刀の金具、刺繍、染物などの陣用具は、すべて小太郎山の砦へ贈るための、美しく健気な奉仕だったのです。
――その頼もしい少女たちは、ちょうど三、四十人ほどそこにいました。
咲耶子は夜起きた変事をつぶさに話し、近いうちにこの谷へも大久保長安の手勢がやってきて、小太郎山の砦と同じように、心ゆくまで荒らし回るだろうと告げました。
「――ですから、おまえたちは少しでも早く、大切な品物や仕事の道具を取りまとめて、それぞれの郷へお帰りなさい。
そして後日、ふたたび小太郎山に武田菱の旗印を見たならば、またその時は緋おどし谷へ来ておくれ。そして、仲よく刺繍をしたり染物をしたりしてちょうだい。
わたしは、それを知らせに来たのです」
意外な言葉でした。
悲しい別れの宣告だったのです。
巴旦杏(はたんきょう)のように輝いていた少女たちの頬は、見ている間に白くあせて、眉は悲しみに曇りました。
袖で顔をおおう少女もいます。
涙を拭くのも忘れ、ただあふれ出るままに流れる涙にまかせている顔もあります。
ですが、それはやがて強い敵対心へと変わり、悲しい別れを拒む決心が、誰の唇からともなく、「イエ!」「イエ!」「イエ!」と激しくほとばしり、みなそろって首を横に振りました。
「わたしたちは帰りません!」
一人の声が凛と響きます。
「このまま郷へ逃げ帰って、父や兄に聞かれた時、なんと小太郎山のことを話せばよいのでしょう」
「あ……」
咲耶子は、その純真な叫びに、魂をつかまれて揺さぶられるような思いがしました。
「――砦の最期を見届けたいのです。
咲耶子さまのお指図に従って、できることなら戦います。
家康の家来である大久保長安、あれは今、甲府の民を苦しめている悪い代官です。その手勢と戦うことは、父や兄の仇と向かい合うのと同じことです」
「…………」
「ねえ、咲耶子さま!」
「…………」
「つねに鍛えている『胡蝶の陣』を組みましょう。
ふだん武芸を励んでいるのも、こういう時のためではありませんか」
「オ……」
「ここにいる者残らず、みな一つ心だと申しております」
「オオ……」
その言葉を待っていた咲耶子の頬には、思わず知らず、感激の涙が玉となって転がり落ちました。
同じ朝――時刻はそれより一刻半(約三時間)ほど前のことです。
もちろん、まだ夜は白みかけたばかり。
砦は昨夜の凄惨な空気の余韻を残したまま、輝きのない朝を迎えていました。
伊部熊蔵や山掘夫ども、そして後から乗り込んできた大久保の手勢は、みな貝殻虫のように砦の建物にもぐりこんで眠っている様子です。
ただ城楼の高いところには、下り藤の大久保家の差物と、淡墨色に丸く染めた葵の紋の旗印が、目新しくひらひらとはためいていました。
ピイッ! ピピピピッ。
一羽の翡翠(かわせみ)が、いつもの朝と同じように、瑠璃色の翼をひるがえして扇縄の水の手へと飛んできました。
そして、翡翠が持つあの長いくちばしで、水に棲むハヤという小さな魚を狙って急降下しました。
――と思った瞬間、翡翠はバッと水面を翼で打っただけで、風にさらわれたかのように空へと飛び去ってしまいました。
名人の矢に狂いはあるとしても、翡翠が魚をくわえそこなうなんてことは決してないはずなのに。
よく見ると、その朝に限って、扇形の貯水池には小さなハヤや大きな山女(やまめ)が、白い腹を浮かせて死んでいるのでした。
あの強そうな赤い山蟹まで、へろへろになって水際で弱っています。
「こりゃあいけねえ」
それを見て、水をすかしている二人の士卒が言いました。
大久保勢の兵糧方、飯や汁を煮炊きする身分の低い兵です。
「昨夜、水門を開けておかなかったから、まだこの水の手には毒がよどんでいるんだ」
「それじゃあ、朝の兵糧を炊くのにさっそく困るぜ」
「――掃除をして新しい水を入れ替えなきゃ……」
「厄介だな、こんな悪さをしやがって」
「城を攻め取るやつは、兵糧方の困ることなんか眼中にはないんだ。攻め取りさえすればいいんだから」
「そしてグウグウ寝てやがる。眼が覚めると、おれたちがこしらえた汁や飯をたらふく食って、自慢話で威張り散らす……考えてみると、兵糧方は割が悪い」
「おい、愚痴をこぼしても仕方がない。早く水を入れ替えておこうじゃないか」
「そうだ! 日が昇ってきた」
二人は水の手の水門をのぞき込みました。
そして、かんぬきを抜いたのです。「おや?」
「どうした?」
「藻がからまっていて、開かないんだ」
「あッ……おい、藻じゃないぞ。あれは。
死体だ! 土左衛門だ!」
「えッ、人間なのか?」
そう言って、ひとりがかんぬきの先でつついた。
もくり……と毒水の波紋がよれたかと思うと、うつ伏せになっていた水死人が、水草の根をゆらゆらとはなれた。
青黒い水のなかにたれている手は、まるでガラス越しに見るような透き通った色をしていた。
それは、夜が明ける前に、卜斎(ぼくさい)によってこの池に投げ込まれた竹童(ちくどう)だった――その手には、般若丸(はんにゃまる)の刀がしっかりと握られている。
浮かんでいる髪の先から、すうっと、水馬(あめんぼ)が二、三匹泳いで通り過ぎた。
二
兵糧方の足軽が、水面に目をみはっていた時だった。
とつぜん。
あらしのような風の音が、上空からうなってきたかと思うと、ふたりの目の前へ、空から何かが勢いよく落ちてきた。
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