「おお……」と家康はうなずいて、そしてやさしそうに、
「父の領地は焦土となり、身は天涯の孤児となった伊那丸、さだめし口惜しかろう、もっともである。
いずれ、家康もとくと考えおくであろうから、しばらくは、まず落ちついて、体をやすめているがよかろう」
家康はなにか一言、近侍にいいつけて、その席を立ってしまった。
ふたりはやがて、酒井の家臣、坂部十郎太のうしろにしたがって、二の丸の塗籠造りの一室へあんないされた。
伊那丸は、ふたりきりになると、ワッと袂をかんで、泣いてしまった。
「龍太郎、わしは口惜しい……くやしかった」
「ごもっともです、おさっしもうしまする」
とかれもしばらく、伊那丸の手をとって、あおむいていたが、きッと、あらたまっていった。
「さすがにいまだご若年、ごむりではありますが、だいじなときです。
お心をしかとあそばさねば、この大望をはたすことはできません」
「そうであった、伊那丸は女々しいやつのう……」
と快川和尚が、幼心へうちこんでおいた教えの力が、そのとき、かれの胸に生々とよみがえった。
にっこりと笑って、涙をふいた。
「わたくしの考えでは、家康めは、あのするどい目で、若さまのようすから心のそこまで読みぬいてしまったとぞんじます。
なかなか、この龍太郎が考えた策にのるような愚将ではありませぬから、必然、お身の上もあやういものと見なければなりません」
「わしもそう思った。
それゆえに、よしや、いちじの計略にせよ、家康などに頭をさげるのがいやであった。
龍太郎、そちの教えどおりにしなかった、わしのわがままはゆるしてくれよ」
果然、ふたりはまえから、家康の身に近よる秘策をいだいて、わざと、この城内へとらわれてきたのらしい。
しかし、すでにそれを、家康が見破ってしまったからには、鮫をうたんがため鮫の腹中にはいって、出られなくなったと、おなじ結果におちたものだ。
このうえは、家康がどうでるか、敵のでようによってこの窮地から活路をひらくか、あるいは、浜松城の鬼となるか、武運の分れめを、一|挙にきめるよりほかはない。
二
日がくれると、膳所の侍が、おびただしい料理や美酒をはこんできて、うやうやしくふたりにすすめた。
「わが君の志でござります。
おくつろぎあって、じゅうぶんに、おすごしくださるようにとのおことばです」
「過分です。
よしなに、お伝えください」
「それと、城内の掟でござるが、ご所持のもの、ご佩刀などは、おあずかりもうせとのことでござりますが」
「いや、それはことわります」と龍太郎はきっぱり、
「若君のお刀は伝家の宝刀、ひとの手にふれさせていい品ではありませぬ。
また、拙者の杖は護仏の法杖、笈のなかは三尊の弥陀です。本丸とは、城主の住む場所である。
築山の松、滝の流れる泉、セキレイが遊んでいる飛び石など、戦のない日は平和の光が満ちあふれている。
そこは浜松城の緑につつまれていた。
伊那丸と龍太郎は、翌日になって、三の丸、二の丸を通り、徳川家康のいるここへ呼び出された。
「勝頼の次男、武田伊那丸の主従とは、お前たちか」
高座の御簾をあげて、こう言った家康は、その時、四十の坂をこえたばかりの男ざかり、智謀にとんだ名将の風貌が自然と備わっている。
「そうです。
自分が武田伊那丸です」
龍太郎はかたわらに両手をついたが、伊那丸ははっきりと言い返し、端然と、家康の顔をじいと見つめた。
――家康も、しっかりとこちらをにらみ返す。
「おう……天目山で命を落とした父の勝頼、また兄の太郎信勝に、なんと生写しであることよ……。
あの戦いのあとで検分した生首に瓜二つじゃ」
「うむ……」
伊那丸の肩は、あやしく波をうった。
彼をにらんだ二つの瞳からは、こらえきれない熱涙が、ハラハラとふり落ちてとまらない。
この家康めが、織田と力を合わせ、北条をそそのかして、武田の家をほろぼしたのか、父母や兄や、一族たちを殺したのか――と思うと、くやし涙は頬をぬらし、骨の髄までしみてくる。
目もらんらんと燃えるようだった。
「若君、若君……」
と、龍太郎はそっとひざをついて目くばせをしたが、伊那丸はさらに感情をおさえきれなかった。
「おお……」と家康はうなずき、そしてやさしそうに言った。
「父の領地は焼け野原となり、身は天涯の孤児となった伊那丸よさぞかし口惜しかろう、もっともである。
いずれ、家康もじっくりと考えておくゆえ、しばらくはまず落ち着いて、体を休めるとよい」
家康は何か一言近習に言いつけ、その席を立ってしまった。
ふたりはやがて、酒井の家臣、坂部十郎太の後ろにしたがって、二の丸の塗籠造りの一室へ案内された。
伊那丸は、ふたりきりになると、わっと袂(たもと)をかんで泣いてしまった。
「龍太郎、わしは口惜しい……くやしかった」
「ごもっともです、お察しいたしまする」
とかれもしばらく伊那丸の手をとってうつむいていたが、きっと顔をあげて厳か言った。
「さすがにいまだご若年、ご無理ではありますが、いまは大事なときです。
お心をしっかりと持たねば、この大きな目的を果たすことはできません」
「そうであった、伊那丸は女々しいやつのう……」
と快川和尚が幼い心にうちこんでおいた教えの力が、そのとき、彼の胸によみがえった。
にっこりと笑って、涙をふいた。
「わたくしの考えでは、家康めは、あの鋭い目で若さまのご様子から心の底まで読みぬいてしまったと存じます。
なかなか、この龍太郎が考えた策にのるような愚かな将ではありませんから、必然的に、お身の上もあやういものと見なければなりません」
「わしもそう思った。
それゆえに、たとえ一時的な計略にせよ、家康などに頭を下げるのがいやであった。
龍太郎、お前の教えどおりにしなかった、わしのわがままは許してくれよ」
はたしてふたりは前から、家康の身に近づく秘策をいだいて、わざとこの城内にとらわれてきたのだった。
しかし、すでにそれを家康が見破ってしまったからには、鮫を退治しようとして鮫の腹の中に入り込み、出られなくなったのと同じ結果におちいったものだ。
このうえは、家康がどう出るか、敵の出方によってこの窮地から活路をひらくか、あるいは浜松城の鬼となるか、武運の分かれ目を一挙に決めるよりほかはない。
二
日が暮れると、膳所の侍がおびただしい料理や美酒を運びこみ、うやうやしくふたりにすすめた。
「わが君のご厚意でござります。
おくつろぎになり、じゅうぶんにお過ごしくださるようにとのお言葉でございます」
「過分です。
よろしくお伝えください」
「それと、城内の掟でござるが、ご所持の品、ご佩刀などは、おあずかり申すとのことでござりますが」
「いや、それはことわる」と龍太郎はきっぱりと言った。
「若君のお刀は伝家の宝刀、人の手にふれさせてよい品ではない。
また、拙者の杖は護仏の法杖、笈(おい)の中は三尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)です。
ご不審ならばお調べなさるがよいが、お渡しすることは誓ってできません」
「では……」
とその威厳におどろいた家臣たちは、おずおずと笈の中を調べたが、その中には龍太郎の言ったとおり、三体の仏像があるばかりだった。
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