だが空にもクロの姿は見えなかった! 裏切り者の黒川八十松め、あれが自分によって自在に操られる飛行の道具だと知り、逃がしたのだ! 鎖を切って空へ放してしまったのだ。
人を呪わば穴二つ。あの猛禽の鎖を切った三人は、立ちどころに、自分たちが放した鷲の爪に捕らえられ、四肢を裂かれてしまったに違いない。
思い返せば、今日はまだ一度もクロに餌をやっていない。その餌となる小鳥や獣を狩りに行き、陣馬へ帰ってきた時に今夜の騒動が起きたので、そのまま放置されていたクロは、さぞかし飢えていたことであろう。飢えた猛禽は、折からの好餌として三人の荒武者の肉を裂き、血をすすって、樺の林から飛び去ったのだ。
「やっぱり、砦を枕に死ねという知らせだったんだ」
彼はいつになくその運命をあっさりと受け入れ、再び黒煙の立ち込める砦へと影のように舞い戻った。
「火をつけるな、松明を放るな!」
そこでは伊部熊蔵が叫んでいる。
「焼いた城を取るのは手柄が小さすぎる。生きたまま城を取るのが大武功というものだ。どうせもうこっちのものになる城だ、向こうの火も早く消せ、消せ!」
そう言って、火薬から燃え広がりそうな奥の曲輪へザッザと水をかけさせている。
一方では二十人ほどが手分けをして咲耶子の行方を探し、また一方では鼻かけ卜斎が、腰に手を当てて城塞の造りをしきりに見回している。
すると、例の扇縄(おうぎなわ)の井戸の近くで、誰かがかがみこんでザブザブと顔を洗いながら、ついでに口を水面へ伸ばして、チューッと水を吸おうとしている奴がいる。
見ると、泣き虫の蛾次郎だった。
「ばかッ」
卜斎に怒鳴られて、蛾次郎は吸い込んだ水を思わずガッと吐き出した。
「親方……?」
叱られるのを怪訝そうに思いながら、
「な、なにが、ばかなんで……」
「毒水だぞ、それは」
「げッ」
「すべて城を乗っ取った際には、そこらに残っている食糧や水は決して口にすべきではない」
「へえ、そうでしょうか」
ペッ、ペッと口の中の唾を吐き散らして、今度は洗いかけていた硝煙で煤けた顔のしずくを両方の袖で拭き回している……。
その途端、
「卜斎ッ、動くな!」
駆け出してきた竹童の声が響いた。
童髪を風になびかせ、夜叉のような形相である。砦とともに死ぬ覚悟を決めた彼。
ひゅーッと紫の軌跡を描いて走ったのは、般若丸の飛閃! あッと卜斎は首をすくめ、肩を斜めにかわして、斬りかかってきた竹童の腕をつかんだ。
「親方ッ、手を貸すぜ!」
蛾次郎は後ろから寄って、あけび巻きの山刀をザラザラと引き抜き、スパーッと竹童の背中を斬りつけたつもりになった。しかし、腕はなまくら、刀も赤錆びていて、上着一枚すら切れない。
「邪魔だ、どけッ!」
つかんだ相手の腕首を締め上げ、卜斎は、
「ええッ!」
と吠えたかと思うと、恐ろしい怪力でブーンと竹童の体を振り回した。まるで鞠でも投げるように、扇縄の井戸へその小さな体を放り込んだ。
ドボーン……と、真っ白な水柱が上がった。
満々とたたえられた毒水の中に、波紋が揺れた。ガバ、ガバ、と二つ三つ苦しげな息をしているうちに、水面に広がった波紋に飲み込まれ、竹童の姿は、青黒い池の底へと見えなくなってしまいました。
五
ここは平和な場所です。
明るい朝。
まだ草の根には白い霧がからみついています。
向こう側の傾斜地を眺めると、芝生をきれいに掃き清めたかのような、やわらかい緑が広がっています。
しかし、その傾斜は目がくらむほど深く、一番下まで降りていくと、白い渓流がサラサラと心地よい音を立てて流れています。
どこからともなく、あたり一面、言葉では言い表せないほど良い香りに包まれています。
朝の太陽が、谷間からゆらゆらと差し込んでくると、強くて気高い香気が水蒸気のように立ちのぼり、そよ風が吹くたびに、うっとりと酔いしれてしまいそうな芳香が鼻をくすぐります。
人のあまり知らない小太郎山の峡谷をぬけて、奥へ奥へと二里ほど入った裏山――ちょうど、白姫の峰と神仙ヶ岳という三つの山に抱かれた谷間で、その渓流に沿った盆地の一角を、杣人や猟師たちは「緋おどし谷」と呼んでいました。
この緋おどし谷の一帯は、ほとんど山百合の花で埋めつくされています。
むしろ「百合谷」と呼ぶべき場所ですが、その盆地に特殊な一つの部落があり、それが百合よりも有名になっている理由でした。
渓流に架かっている蔦のかけ橋を渡ると、そこには部落の盆地が広がっています。あちらに四、五軒、川べりに七、八軒、また傾斜した山の背にも八、九軒と、煙を立てている人家がありました。
そして、そこに住んでいるのは、みな十五、六歳から十七、八歳くらいの、まるで百合の花そのもののような乙女たちばかりです。
戦国時代の修羅の世をよそに、緋おどし谷は平和そのものでした。
比叡山や根来寺のような霊山を焼き払うことも厭わない荒武者たちのわらじでも、まだここの百合の花だけは踏みにじられていません。どこの家もこぎれいで、窓には鳥籠が下がり、垣根には野菊が咲き、のぞいてみれば壁や床には胡弓や琴が飾られています。
ですが、知らない者にとっては不思議な郷です。
林檎のように赤い頬をした、健康そうな少女たちばかりが住んでいて、一体彼女たちは何を職業とし、父や兄や祖父などはいないのでしょうか?
まさか、女だけの国でもあるまいし。
それは――。
実は、彼女たちはみんな冬になると帰っていく少女たちなのです。
冬の雪を見れば甲府へと帰り、春になれば夏の終わりまで、少女たちだけでこの谷で暮らしているのです。
では、その目的は? やはり稼ぎに来ているのでした。
そして、その家一棟一棟で、それぞれ職業が違うのも面白いところです。
川べりに近い家では、糸や麻をさらしていました。
その隣では染物をしています。
またある家では鹿の皮をなめし、小桜模様や菖蒲紋といった型を置く作業をしていました。
ここの渓流では砂金がとれるため、その砂金を売って鎧や小太刀の金具を作る少女がいて、かと思えば、皮をつないで絹糸で武具の草摺(くさずり)を縫い合わせている家も見えます。
とにかく、ここでは革細工、草摺、旗指物、幕の裁縫、鎧の下着、あるいは細かなつづれ錦など、武士の衣裳や陣具の類を作るものばかりが住んでおり、それがみな、かわいらしい少女たちの手によって製作されていたのです。
この渓谷の水が染物に適しており、ここの温度が革づくりに適しているからだと言われていますが、とにかく、緋おどし谷が開かれたのは武田信玄の時代からのことでした。
そこへ。
今朝、ふと姿を見せたのは、峡谷を伝って小太郎山から一睡もせずにやってきた咲耶子でした。
向こう側から緋おどし谷の部落を眺め、誰かが渓流にやってくるのを待っていると、やがて二、三人の少女が染桶と糸の束を抱え、明るい笑い声を交わしながら、川床へと下りてきました。
咲耶子は、昨夜の出来事による苦悶の色を隠せぬ中にも、その姿を見るとニッコリと笑い、帯の間から横笛を抜き、静かに口元へ当てました。
鳴り響く音!
ゆるやかな、笛の音。高い笛の音。
「おや?」
河原にいた少女たちが、みんな一斉にこちらを見上げました。
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