初級翻訳・神州天馬侠 第50話

吉川 英治

するとすぐに、鋭い太刀風が竹童の耳たぶから鼻筋のあたりをブーンとかすめました。
哀れ竹童、組み討ちならまだしも、駆け比べならまだしも――真剣の白刃を交えるには、悲しいかな、まだそれだけの体格もできておらず、剣の技もありません。第一、腰に差している刀というのが、頼りない樫の棒切れなのです。

一

秋の水が冷たくなって、鮠(はや)も山魚もいなくなった今の時期、何を釣る気か、ひとりの少年が蘆川の淵に向かって釣り糸を垂れていました。
少年は年のころ十五、六歳。少し低能そうな顔立ちですが、目だけは狡猾に光っています。鳥の巣のような髪をわらで結び、真っ黒に汚れた山袴を履いて、腰には鞘が壊れ、あけびの蔓で巻いた山刀を一本差していました。
「ちぇっ、釣れねえ、釣れねえ。もうやめた!」
とうとう癇癪(かんしゃく)を起こしたとみえて、いきなり竿をバシバシと折って、蘆川の流れへ投げ捨てました。
「あ、淵の岩にセキレイが遊んでいやがる。そうだ、これからは鳥打ちだ。ひとつ小手調べに稽古してやろうか」
そう言って足元の小石を三つ四つ拾い取ったかと思うと、はるか流れの中ほどを狙って、恐ろしく熟練した礫(つぶて)を投げ始めました。
「やっ!」
小石に気合がこもって飛んでいきます。と見る間に、二羽のセキレイのうち一羽が淵の水に落ち、美しい波紋をクルクルと描きながら早瀬の方へ流れていきました。
「どんなもんだい。蛾次郎さまの腕前は――」
彼はひとりで鼻をうごめかしましたが、もう狙うべきものが見当たらないので、今度は巧みな水切りの芸を始めました。
一つの小石が彼の手から離れるとともに、なめらかな水面をツイッ、ツイッ、ツイッと水を切っては跳び、切っては跳びします。まるで小石が千鳥となって波を蹴っていくようです。
「七つ切れた! 今度は十だ!」
調子に乗って蛾次郎が我を忘れているときでした。そこから二、三町離れた河原で、ただならぬ叫び声が起こったのです。
彼はふいに耳を立て、四、五間ほど駆け出して眺めると、いましもひとりの凶漢が、白く光る刃を振りかぶって、小っぽけな小僧を真っ二つに斬りかけようとしていました。それは燕作と竹童でした。
竹童はいまや必死の形相で、樫の棒切れを風車のように振って、燕作の真剣と火花を散らして戦っています。しかし、大人の男の鋭い太刀風は、彼に瞬きをする隙も与えず斬り立ててきました。
あわや竹童は血煙とともに命を落とすかと思われましたが、
「あッ――」
ふいに燕作が、唇を押さえながらタジタジとよろけました。どこからか風を切って飛んできた小石に打たれたのです。
「しめた!」
竹童は小さな体をおどらせて、ピシリッと燕作の耳たぶをひっぱたきました。
「野郎ッ!」
怒髪を逆立てて再び太刀を持ち直すと、またブーンと彼の小手に第二の礫が当たりました。
「あいたッ!」
ガラリと道中差を取り落としましたが、さすがの燕作も、それを拾い直して再び立ち向かう勇気もないようです。笑止なことに、四尺にも満たない竹童に背中を見せて、例の早足で雲を霞と逃げ出しました。
「待て! 意気地なしめ!」
竹童は急に気が強くなって、今度はさっきと反対に、彼を追ってドンドン走り出しました。するとちょうど、向こうからも河原伝いに、黒鹿毛の駒を疾風のごとく飛ばしてくるひとりの勇士がありました。
――見るとそれは、秘命を帯びて伊那丸の本陣・雨ヶ岳を出た奔馬「項羽」。
――乗っているのは言うまでもなく、白衣の木隠龍太郎でした。「やあやあ、あれは伊那丸方の武将らしいぞ」
と、戸惑った燕作が、その行く先でうろうろしているうちに、たちまち駆け寄った龍太郎が、
「これッ!」
と、すれ違いざまに右手を伸ばして燕作の首筋をひっつかみ、やっ、とばかりに馬上へ吊り上げました。かと思うと、
「往来の邪魔だ!」
と、まるで手玉に取るように草むらの中へ放り込みました。そのまま走り出すと、今度はバッタリと竹童に出会いました。
「おお、そこへおいでなされたのは龍太郎さま――」
「やあ、竹童ではないか」
龍太郎は「項羽」の足をピタリと止めました。
「なんでこんなところでうろついているのだ。呂宋兵衛の手下どもに見つけられたら、命がないぞ。早く鞍馬山へ立ち帰れ」
「ありがとうございますが、まだこの竹童には、お師匠さまから言いつけられている大役があるんです。ところで龍太郎さまは、これからどちらへお急ぎですか?」
「これから小太郎山へ向かって三百人の兵をかき集め、ここ四日後のうちに、人穴城を攻め落とす計略だ」
「わたくしがやる仕事も四日目が期限です。どうも、お師匠さまのお指図は、不思議にピタリピタリと伊那丸さまの計略と一致するのが妙でございます」
「ふーむ……して、その密計とはどんなことだ?」
「天機(秘密)は漏らすべからず。――しゃべるとお師匠さまからお目玉を食います。それよりあなたこそ、どうして三百人という兵がわずか四日で集められますか。まさかわら人形でもありますまいし」
「それも、軍機(軍事上の秘密)は語るべからずじゃ」
「あ、しっぺ返しでございますか」
「オオ、そんなのんきな問答をいたしている場合ではない。竹童、さらば!」
と、龍太郎がふいに鞭をあげて行く手を急ごうとしたとき、何者かが、
「バカだな、バカだなあ! あの人は一体どこへいくつもりなんだい!」
とあざ笑う声がしました。
木隠龍太郎も竹童も、その言葉にびっくりして振り返ると、石投げをしていた蛾次郎がいつの間にかのっそりとそこに立っていました。

隠密落とし

一

「拙者をバカと言ったのは貴様だな」
龍太郎が睨みつけると、蛾次郎は一向に応える様子もなく、ゲタゲタと笑いながら、
「ああ、おれだよ」
「ふらちなやつ、なんでそのようなことをぬかした」
「だってお侍さんは小太郎山へ行くっていうのに、とんでもない方へ馬の首を向けて急ぎ出したから笑ったんだ」
「ふーむ、ではこちらへ向かっていては悪いのか?」
「悪いことはないけれど、この蘆川を大回りして甲州街道をグルリと回った日には、半日も余計な道を歩かなきゃならない。それより、この川を乗り切って駿州路を左に抜け、野之瀬、丸山、鷲の巣と出て、野呂川を見さえすれば、すぐそこが小太郎山じゃないか」
と、少し抜けている蛾次郎も、住み慣れた土地の地理だけに、詳しく弁じました。
「なるほど、これは拙者がこの辺に不案内なため、無益な遠回りをしていたかもしれぬ。しかし、この激流を馬で乗り切る場所があるだろうか」
「あるとも、水馬さえ達者なら、楽々と越せる瀞(とろ)がある。ここだよ、お侍さん――」
と蛾次郎は、先ほど水切りをやっていたところを教えました。
「む。なるほど、ここは深そうだ。川幅も四、五十間。これくらいなところなら乗り切れぬこともあるまい」
龍太郎は喜んで、浅瀬から「項羽」を乗り入れました。ザブザブ、ザブ……と水を切っていくうちに、紺碧の瀞を鮮やかに乗り切り、たちまち向こう岸へ泳ぎ着いてしまいました。
「ありがとう」
と、それを見送るとホッとした様子で竹童が礼を言うと、蛾次郎はクスンと笑って、
「何がありがてえんだ。お前に教えてやったわけじゃあない」と言いました。

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