初級翻訳・神州天馬侠 第182話

吉川 英治

忍剣はいま、さながら羅刹(らせつ)であり、夜叉であり、奸譎(かんけつ)な非武士の卑劣を憤怒する天魔神の姿だった。普段は無口で、伊那丸に対しては柔順であり、友情にもろく、小事にこだわらず、鉄杖に殺風を呼ぶことも滅多にない男である。しかし、いったんその眼差しを紅に裂いたときには、百槍千甲の敵も食い止めることができず、友人でさえ手がつけられない忍剣だった。

その忍剣が堪忍袋の緒を切り、鉄杖と鉄腕が続くかぎり暴れ回るのであるから、掘っ立て小屋同然の狩屋造りは片っ端からぶち壊され、召し捕ろうとする新手も新手も、猛猪に蹴散らされる木の葉のように四散し、散滅して、手負いの数を増やすばかりであった。

この騒ぎとともに、徳川家以外の溜まり場の者たちは、彼らの横暴をひそかに不快に思っていたので、皆見て見ぬふりをして山を下りてしまった。

そこで、もはや手にあまった浜松城の武士や、石見守から訴えを受けたのであろう、御岳神社の衛士(えじ)たちが数十人、ご神縄と称する注連縄(しめなわ)を手に持って、
「ひかえろ! ひかえろ! ひかえろ!」
と叫びながら、松明を振って石段の上から殺到した。

これを「神縛(かみしばり)の討手」という。神のお縄を預かり、神庭の狼藉者を捕縛する使いである。理非はともあれ、御岳の掟である「血を見るなかれ」という誓いを破ってしまった忍剣に対し、当然のごとく、御岳の神縄が下されることとなった。

四

「ああ、しまった!」

龍太郎をはじめ、蔦之助や小文治、そして竹童たちは、忍剣がこれまでの我慢を突き破って力に訴えた気持ちはわからなくもないが、とんでもないことになってしまったと、嘆きの声を上げた。

すでに彼が忍従の鎖を断ち切って暴れ出した以上、もはや止めることもできず、かといって加勢することもできない。

手をこまねいて見ているだけか? それも、友としてはあまりにも忍びない。

「どうしたものだろう」

龍太郎は、自分の身の振り方よりも先が思いやられ、途方に暮れていた。

だが――その彼ら以上に驚き、動揺していたのは、群衆が去ったあとで、矢来の外から心配そうに見守っていた小幡民部と、武田伊那丸の二人であった。

ああ、ついに大事を引き起こしてしまった――。

二人の表情には、深い憂いが満ちていた。

もしこのようなことがあってはと、仲間たちには矢来の中へ足を踏み入れることを固く戒めていたのに――と、いまさら後悔しても、もう遅かった。

「民部、民部」

普段は冷静な伊那丸が、突然、矢来を突き破って駆け出しながら、

「早く来い、捨ててはおけまいぞ」

と、龍太郎たちが途方に暮れているそばへやってきた。

「おお、若君!」

「忍剣の身の一大事だ」

「われわれの不徳のいたすところ、お詫びの申し上げようもございません」

「そんなことは、今さら言うまでもない。とにかく、忍剣を救うのだ」

「は、はい……。しかし、若さままでがここに姿をお出しになっては、どんな災いが降りかかるか知れません。どうか民部殿は若君のお供をして、ここからお立ち退きください。あとの儀は、われわれでどうなりと処置してまいります」

一同が恐る恐るそう進言しても、伊那丸は強く首を振った。

「彼の安否がわからぬうちに、自分ばかり退くことはできない。……おおっ!」

伊那丸が「おおっ」と声を上げたのと同時に、かなたで「ワーッ」という鬨(とき)の声が響いた。

振り返ると、まさにその時だった。

殺到した御岳の衛士数十人が、手に手に神縄と松明を持ち、

「静まれ! 静まれ!」
「神使であるぞ。ご神縛の使いであるぞ!」
「控えろッ!」
「静まれ!」

と叫びながら、血まみれの人渦の中へ、真っ白な列を雪のように散らしていった。

「あッ、あれは? ――」

「御岳のご神縛です――ご神縛が下されたのです」

「やむを得ないこととなった。しかし、忍剣を他人の手に召し捕られるのは、なんとも残念だ。彼としても本意ではあるまい。民部、民部」

「はッ」

「わしに代わって、おまえが神縄を受けて忍剣を捕らえてこい」

泣いて馬謖(ばしょく)を斬る伊那丸の心を感じ取った民部は、

「はッ、かしこまりました!」

と、涙を振り切って駆け出した。

そして、群れをなして襲いかかっていた衛士たちを割って入り、

「あいや、御岳の舎人たちに申し上げる。狼藉者は手前の友人ゆえ、この方にて取り押さえる。しばらくの間、そのご神縄を拝借いたす!」

と叫んで、一人の衛士から縄を借りると、修羅王のように暴れ回っている加賀見忍剣の前へ、つかつかと寄り添っていった。

普段は一食一衣を分かち合って寝起きする友であるが、いまは御岳の神縄を借りて捕縛しにきた小幡民部。

その縄を右手につかんで、

「忍剣」

としずかに呼びかけた。

五

忍剣は、ハッとした様子で、

「おう、民部殿か」

と、炎のような荒い息をついた。

「伊那丸君のお言いつけを受けて、若君の代わりとして参った小幡民部だ。神の掟を破った科人(とがにん)よ、速やかにご神縛を受けよッ」

言下に、ガランと地を掘って、彼の足元へ血みどろの鉄杖が投げ出された。

すると忍剣は、素直に後ろへ手を回して、

「民部殿、ご心配をかけた。いざ……」

と、大地へ座り込んだ。

注連縄(しめなわ)のついた荒縄が、ギリギリと彼の腕へ巻きつけられた。

民部はこの間、何か声をかけてやりたかったが、胸がいっぱいで、彼に与える言葉が見つからなかった。

忍剣の体は縄がついたまま、民部の手から御岳の神官たちへと引き渡された。

それを見ると、逃げ回っていた徳川家の者たちが、また蠅のように集まって神官を取り囲み、忍剣を渡せ、殺傷の罪人を徳川へ渡せと騒ぎ立てた。

しかし神官は、断固としてそれを拒んだ。

「科人はご神刑にかけます。ご領地のできごとなら知らぬことですが、ご神縛の科人は当山の習わしによって罰します」

そして、一同に退去を命じた。

血を流した以上、大講会の中止はやむを得ないことだが、徳川家の武士や石見守の家来たちは、まだ騒然と群れており、その場を離れようとはしなかった。神官はさらに法に基づき、伊那丸、民部、龍太郎、そして忍剣と行動を共にしていた仲間たち、計六人全員を垢離堂(こりどう)へと連行し、謹慎するよう命じました。
これも、掟とあれば断ることはできません。
――戦国の世において、神ほど敬われたものはなく、神の力や法ほど、誰も逆らうことのできないものと信じられていた時代でした。
どんな戦であっても、一枚の熊野権現の誓紙さえあれば、武器を収めさせることができました。
神を仲立ちにして誓えば、大坂城の濠さえ埋め立てるほどの効力があったのです。
町人ですら、神にかけて血判を押すことは、命以上に重い約束でした。
ましてや武士であれば、絶対に神に従い、敬うことを心の基本としていたのです。

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