初級翻訳・神州天馬侠 第77話

吉川 英治

長年の願いがかなって、さぞ大喜びしているだろう――と思いきや、竹童はすごすごと伊那丸の前から下がり、般若丸の太刀を抱きかかえたまま、人のいない陣屋の隅で、ひとりシクシクと泣きはじめたのです。

「はてな……?」
龍太郎は眉をひそめて、そっと竹童の後をついていきました――そして、その様子を目の当たりにします。
「うーむ。
こりゃ不思議だ。
鞍馬の山にいた頃から、めったに泣いたことのない竹童が……」
すきまから覗き見をしながら龍太郎はそう呟き、しばらく考えていましたが、やがて、
「おい竹童、なんでこんなところで泣いているんだ」
と、幕をさっと払って、優しく彼の背中を叩きました。
竹童は急に声をかけられて恥ずかしそうにしながら、泣き顔を隠して言いました。
「いいえ、何も泣いてなんかいませんよ」
「嘘をつくな! まぶたは真っ赤だし、いただいたお刀はこのとおり、お前の涙に濡れているではないか。いったいどうしたというんだ。お前と俺は果心居士(かしんこじ)先生の兄弟弟子だ、俺に隠し事なんてなかろう」
「はい……実は龍太郎さま……」
「うむ、どうした」
「あの、クロがどこかへ逃げてしまったんです」
「おお、お前が誰よりもかわいがっていた、あの大きな鷲が逃げ失せたと言うのか!」
「きのう、狼煙を打ち上げるときに、水車小屋の後ろに置いておいたのに、今朝見たら影も形もないんです……ああ、とうとうクロは僕を見捨てて、どこかの山へ隠れてしまったんだ」
「あんなになついていたし、お前も大切にしていた鷲だから、さぞ寂しく思うだろうが、いくら霊鳥(れいじゅう)だと言ってもしょせん動物だ。どうしようもないことと諦めるしかなかろう」
「いいえ、僕にはどうしても諦めきれません……!」
竹童は子供のように首を横に振って、
「僕は悲しいんだ! クロがいなくなったら、一日だって寂しくて生きていられないよ!」
「はははは!」
龍太郎は思わず笑い出してしまいながら、こう言いました。
「まったく、お前は『鞍馬の竹童』と呼ばれて世にもまれな神童と言われているのに、こういうところはやっぱり子供のわがままだな。おい竹童、お前はクロを失ったかわりに、若君から般若丸長光の名刀をいただいたではないか。さあ、元気を出して、今日からそれを差していくがいい!」
「だからこそ、僕はいっそう悲しいんです……!」
竹童は涙を流しながら叫びました。
「人穴城へ松明(たいまつ)を投げ入れた手柄も、きのうの大活躍も、みんな僕の力なんかじゃなくて、クロの手柄なんだ……!」「……クロがあってこそ、この竹童も人並み以上の働きができたのです。それなのに、自分ばかりこんなに立派な褒美をいただいても、少しも嬉しくありません……」

竹童の言葉は、まさに純粋そのものでした。彼はますますクロとの別れを悲しみ、声を上げて泣き続けるばかりです。さすがの龍太郎もこれには困り果て、言葉を尽くしてなぐさめました。そして、今日は一日「陣休み」だから、とにかく久しぶりに心も体もしっかり休めておくようにと言い残し、幕の向こうへ出て行きました。

「はい、もう泣くのはやめます……」

龍太郎が立ち去り際に言った言葉にそう答えましたが、ひとりになると、やはり寂しさに耐えかねたのか、竹童はしょんぼりと陣屋の空を見上げていました。
そして、つまらなそうに馬糧のなかにごろりと身を横たえると、やがて連日の疲れが一気に押し寄せたのか、無邪気な寝息がスヤスヤと聞こえ始めました。

その頃、得意満面でいたのは、泣き虫の蛾次郎です。
首尾よく「鷲ぬすみ」という離れ業をやってのけ、空を飛ぶという不思議な体験を思う存分楽しみながら、あっという間に家康の領地、浜松の城下までやってきました。
竹童のやり方を真似て、乗り捨てた鷲をある森の中に隠すと、自分は例のあけびの蔓(つる)を巻いた山刀を振り回し、意気揚々と城下の隠密組・黒屋敷に住む菊池半助の屋敷を訪ね当てました。

「おねがい申します」

反り返って玄関口に立ちはだかると、生意気にももっともらしい顔をして、取り次ぎの小侍にこう言いました。
「まかり出ました者は、富士の裾野の住人、鼻かけ卜斎の弟子、鏃(やじり)師の蛾次郎と申す者。ご主人・半助さまに、至急お目にかかりたいと存じます」

取って返して奥から出てきたのは、菊池家の家来と見えて、いかにも頑丈そうな三河武士でした。彼は横柄に頭の上から蛾次郎を見下ろして言いました。
「フーム、お前か。泣き虫の蛾次公というのは?」
「はて、心得ませんな」

蛾次郎は口を尖らせ、すこぶる威厳を傷つけられたように憤然と返しました。
「鍛冶にかけては鏃鍛ちの名人、石を投げれば百発百中の早技を持つわたくし。しかも、半助さまの頼みにより、命がけで稀代の大鷲を連れてまいりましたのに、近ごろ無礼なごあいさつ。余計なことを言わずに、さっさとご主人にお取次ぎなさい」

胸に慢心をいっぱいに溜め込んだ蛾次郎は、まるで天狗の面をかぶったかのように、鼻高々と大見得を切りました。

「やかましいッ!」

侍の一喝に、蛾次郎はヒヤリとして首をすくめます。
「ご主人・半助さまには、貴様のような小僧になど用はないとおっしゃった。ペラペラ無駄口を叩かずに退散しろ!」
「へえ……こりゃ妙だ。あれほど蛾次郎に鷲を盗んできてくれと頼んだ半助さまが、今日になって用がないとはずいぶんひどい。それは何かの間違いでしょう」
「黙れ、へらず口の達者なやつめ。いつまで玄関に立ちはだかっていると、つまみ出すからそのつもりでいろ」
「ちぇっ、馬鹿にしやがって」
「こいつめ、まだ出て行かないのかッ!」
「いまいましい! けっ、よくも人を騙してカスを食わせやがったな。覚えていろよ、いまに鷲に乗って、この屋敷の上から小便をひっかけてやるからな!」

得意になって描いてきた欲望をめちゃめちゃに裏切られた蛾次郎は、腹立たしさのあまり出放題の悪態をつきました。しかし、黒屋敷の門を出ようとしたその時、横から不意に太い腕が伸び、ぐいと襟首を掴み戻されました。

「あっ、あなたは菊池さま……」
「今なんと言った」
「くっ、苦しい……。べつに、何にも言いませんよ」
「いや、言った! 不埒なやつめ!」
「だって、だってそれは無理でしょう! あなたさまこそ、竹童の鷲を盗んできたら徳川家の武士に取り立ててやる、褒美はなんでも望み次第だと、向田ノ城でおっしゃったじゃありませんか!」

「馬鹿め。いやはや、あきれ果てた低能児だ。汝のようなうすのろを戦の用に立てようとしたのが半助の大失策。ご当家の軍勢が裾野の陣へ繰り出すときに間に合ってこそ、鷲も役に立つと思って申したのだ。それを何だ、すでに戦も済み、軍勢も引き払った今日の今日まで、いまさら鷲を盗んできたところで何になるかッ! あの欲張り小僧めッ!」

ピシリッと頬を一つ張り飛ばされたうえ、足を掴まれて門の外へ蹴飛ばされました。さっきの小侍や仲間たちは、下水の水を汲んできて蛾次郎の頭からぶっかけ、門を閉めて笑い合いました。

半死半生の泥ねずみとなって、泣くにも泣けない蛾次郎先生。

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